おおとり神社

おおとり神社といえば、浅草の鷲神社もありますし目黒の大鳥神社もありますし足立花畑の大鷲神社もあります。

それぞれの神社についてホームページの記述をアップします。

まず浅草の鷲神社の由緒

鷲神社は天日鷲命(あめのひわしのみこと)日本武尊(やまとたけるのみこと)をお祀りした由緒正しい神社です。現在は「おとりさま」として一般にも親しまれ崇敬を集めており、また十一月の例祭も現在は「酉の市(とりのいち)」として広く知られています。

社伝によると天照大御神が天之岩戸にお隠れになり、天宇受売命が、岩戸の前で舞われた折、弦(げん)という楽器を司った神様がおられ、天手力男命が天之岩戸をお開きになった時、その弦の先に鷲がとまったので、神様達は世を明るくする瑞象を現した鳥だとお喜びになり、以後、この神様は鷲の一字を入れて鷲大明神、天日鷲命と称される様になりました。
天日鷲命は、諸国の土地を開き、開運、、殖産、商賣繁昌に御神徳の高い神様としてこの地にお祀りされました。

後に日本武尊が東夷征討の際、社に立ち寄られ戦勝を祈願し、志を遂げての帰途、社前の松に武具の「熊手」をかけて勝ち戦を祝い、お礼参りをされました。その日が十一月酉の日であったので、この日を鷲神社例祭日と定めたのが酉の祭、「酉の市」です。この故事により日本武尊が併せ祭られ、御祭神の一柱となりました。

江戸時代から鷲神社は、「鳥の社(とりのやしろ)」、また「御鳥(おとり)」といわれており、現在も鷲神社は「おとりさま」と一般に親しまれ崇敬を集めています。十一月の例祭も現在は「酉の市」と広く知られていますが、正しくは「酉の祭(トリノマチ)」と呼ばれた神祭の日です。

 

続いて目黒の大鳥神社の由緒

景行天皇の御代(西暦71~130年)、当所に国常立尊を祀ったやしろがありました。

日本武尊は景行天皇の皇子であり、天皇の命令で熊襲を討ち、その後に東国の蝦夷を平定されました。
この東夷平定の折、当社(大鳥神社)に立ち寄られ、東夷を平定する祈願をなされ、
また、部下の「目の病」の治癒を祈願されたところ、首尾よく東夷を平定し、部下の目の病も治り、
再び剣を持って働くことができるようになったので、当社を盲神めくらがみと称え、手近に持って居られた十握剣とつかのつるぎを当社に奉り、
神恩に感謝されました。この剣を天武雲剣(あめのたけぐものつるぎ)と申し、当社の社宝となっております。

 当社の社伝によると、「尊のみたまが当地に白鳥としてあらわれ給い、鳥明神とりみょうじんとして祀る」とあり、
大同元年(西暦806年)には、社殿が造営されました。当社の社紋が鳳凰ほうおうの紋を用いているのは、このためです。
日本武尊の祈願成就の由緒により、目黒の祈願所といわれます。
 また、江戸図として最も古いとされる長禄の江戸図(室町時代)には当社は鳥明神と記載されております。
尚、この江戸図に記載されている社は九社しかなく、当社は江戸九社の一つに数えられております。

足立花畑の大鷲神社の由緒

大鷲神社の御祭神は日本武尊(やまとたけるのみこと)です。

日本武尊は第12代景行天皇の皇子としてお生まれになりました。母は稲日大郎姫(いなびのおおいらつめ)と伝えられております。兄は大碓尊(おおうすのみこと)、弟である日本武尊はまたの名を小碓尊(おうすのみこと)、倭男具那命(やまとおぐなのみこと)とも申しあげます。

日本武尊は東征の帰路、当地に本陣をおき、多年にわたり夷賊に苦しんでいた人々を救済したと伝えられます。人々は尊の善政に厚く感謝し、崩御ののちに日本武尊をお祀りしました。御祭神にちなみご命日とされる11月酉の日に神恩感謝の祭が行われるようになりす。この祭がのちに酉の市と呼ばれるものです。

武運長久・開運守護の神として信仰が篤く、中世、新羅三郎源義光が兄八幡太郎源義家の援軍として後三年の役に向かう途次、当社に戦勝の祈願をなさいました。

後三年の役に勝利した義光は帰途、再び当社に奉賽し、社殿を改築「金の前立の兜」及び武具を奉献したと伝わります。

幕末、幕府の命により義光の子孫である佐竹氏が本殿を改築。安政元年(1854)から明治8年まで20余年の歳月を要し、竣功を迎えました。総欅造りで数知れぬ大小の彫刻が随所に見られます。特に正面にある向拝柱に彫られた「昇り龍・降り龍」は荘厳で、左甚五郎13代目後藤与五郎の作と言われております。

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