メートル条約

1875年5月20日に成立したメートル条約。メートル条約はウイキペディアには以下の記述がありました。(メートルじょうやく、仏: Convention du Mètre)は、度量衡の国際的な統一を目的として、1875年5月20日に成立したメートル法に関する条約である。14か条の条約本文と附録規定から成る。当時、17か国の代表によりフランス・パリで締結された。

この1875年5月20日は、日付と時刻の国際規格であるISO 8601(及びJIS X 0301)において、年月日の起点の定義として用いられている(ISO 8601#起点)。

条約に基づき、国際的な計測学とメートル法の発展の調整のための研究所と、研究所の運営を監督するための組織を設立した。当初、メートル条約は質量と長さの単位のみを対象としていた。

しかし、1921年の第6回国際度量衡総会(CGPM)により、すべての物理単位を対象とするように方針が改められ、同年10月6日にセーヴルで改正条約に署名された。

1960年の第11回国際度量衡総会で、メートル条約により確立した単位系は精査され、「国際単位系(SI)」として再始動した。

国際組織[編集]

メートル条約により、以下の3つの国際組織が設立された。

  • 国際度量衡総会(CGPM: Conférence générale des poids et mesures) – 4~6年に一度開催され、すべての加盟国の代表者が参加する。
  • 国際度量衡委員会(CIPM: Comité international des poids et mesures) – 18の異なる国からの18人の著名な計測学者からなるCGPMへの諮問機関。総会で決定された事項を代執行する。
  • 国際度量衡局(BIPM: Bureau international des poids et mesures) – 委員会の監督下に設置される。標準に関する国際的研究課題を担当する研究所であり、CGPMとCIPMの事務局でもある。国際キログラム原器の保管を行う。パリ郊外のセーヌ河畔・セーヴルに本部を置く。

条約の加盟国[編集]

条約の加盟国は、フランスと外交関係がある国に制限される。ただし、1999年に準加盟国(associate membership)の制度が導入され、BIPMの活動には参加しないが、較正と測定の相互承認のためのCIPM-MRA(相互承認協定)に参加できるようになった。

1215年にイングランドで制定されたマグナ・カルタの第25条には、領域のいたるところで適用される度量衡の標準について述べられている。条文は「我々の領域の至る所で……1つの度量衡があるべきだ」と強調している。5世紀後の1707年、イングランドとスコットランドがひとつの王国に合併したとき、スコットランド人はイングランドですでに定着していた度量衡を使うことに同意した。18世紀、ロシアの皇帝ピョートル1世(大帝)は、貿易を容易にするためにイギリスの度量衡の制度を採用した。

計量単位の悪用は、フランス革命の原因のひとつであり、その改革は国民議会の課題のひとつだった。議会の有力なリーダーであるタレーランは、新しい単位系の創設へのイギリスとアメリカの参加を求めた。しかし、結局議会は独自にメートルとキログラムを導入した。これがメートル法の基礎を築くことになる。1799年にメートルとキログラムの原器を作成し、公文書館に保管した。

1850年から1870年にかけて、スペイン、多くの南米の共和国、イタリア語圏とドイツ語圏の国でメートル法が採用された(オランダは1817年に採用)。1863年、万国郵便連合は、許容される手紙の重さを表すのにグラムを使用した。

1860年代、メートル原器の検査で、原器の測定表面が消耗していることと、原器を使用中にわずかに曲がっていることが判明した。メートルとキログラムの再現可能性に対する疑いと、対抗する標準が作られるかもしれないというおそれから、ナポレオン3世は全世界の科学者に対しパリでの会議に出席するよう要請した。会議が始まる2週間前の1870年7月に、普仏戦争が勃発した。ドイツの代表団を除いて各国代表は集まったが、ドイツの代表を含めて再度会議を開くべきということで合意した。

フランスは戦争で敗れ、ナポレオン3世は亡命した。ドイツと統一イタリアはメートル法を採用したが、フランス第三共和政管理下のキログラムとメートルの原器の写しは持っていなかった。1872年、フランスの新しい共和政府は再度科学者を招待し、1875年、欧米の30か国の科学者がパリで会合した

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