最後の一か所を探しました。五芒星を描くためには江東区の南砂あたりとなります。そこで一般の公開されている寺院を探さなくてはなりませんでした。残念ながらメジャーな寺院はなかったです。とりあえず地図に五芒星を試しに描いてみました。そこでポイントとなる箇所周辺で寺院を探しました。ちょうどそのポイントの場所に寺院がありました。とにかくそこへ行ってみました。寺務所へ伺い参拝について寺院の方に聞きましたが、一般には公開していないとのことでした。急遽、違う寺院を探すことになりました。その場所から1Km圏内にもうひとつ寺院がありました。妙久寺がありました。とにかくそこへ行ってみました。こちらも残念ながら一般には公開していないとのことでしたが、お寺の方のご配慮で参拝させていただけることになりました。りっぱな本堂にご本尊が鎮座されていました。日蓮宗天霊山妙久寺について猫の足あとに以下の記述がありました。
日蓮宗天霊山妙久寺
妙久寺の概要
日蓮宗寺院の妙久寺は、天霊山と号します。妙久寺は、小湊誕生寺16世日領上人(慶安元年1648年寂)が寛永7年(1630)創建したと伝えられます。
妙久寺の縁起
妙久寺は、小湊誕生寺16世日領上人(慶安元年1648年寂)が寛永7年(1630)創建したと伝えられます。
新編武蔵風土記稿による妙久寺の縁起
妙久寺
法華宗房州長狭郡小湊誕生寺末、天霊山と号す。本尊三寶祖師を安す。開山日領、慶安元年11月19日寂す。
三十番神堂(新編武蔵風土記稿より)
「江東区の民俗城東編」による妙久寺の縁起
妙久寺
『新編武蔵風土記稿』巻之二五によれば、開山日領は慶安元年(一六四八)に亡くなった。『城東区史稿』によれば、日領上人は小湊誕生寺第一六世であり、寛永七年(一六三〇)にこの寺を建立したという。八右衛門新田は寛永年間(一六二四~四四)に足立郡大門宿(現浦和市大門)の百姓源左衛門の子八右衛門が来て開拓したとされており、新田の開発と妙久寺の創始が重なっており、八右衛門と日領は何か関係があったかとも思わせる。なお、日領は不受不施派であったために奥州相馬に流され慶安元年相馬郡仏立寺で亡くなったという。(「江東区の民俗城東編」より)妙久寺所蔵所蔵の文化財
- 木造日蓮上人坐像
- 銅造梵鐘 大出和四郎・藤原治具作
- 題目曼荼羅
- 近藤長裕墓
- 馬頭観世音供養塔 昭和3年在銘
- 法華経供養塔 享保3年在銘・享保14年在銘
- 力石
ご本尊の木造日蓮上人坐像は力を感じるものでした。参拝が終わるとお寺の方が「このには大鵬親方のお墓がありますよ。」と教えていただきお墓の場所を教えてくれました。また「お孫さんが今、角界で活躍していて、先日もお墓参りに来られました。さらに元横綱の白鵬さんが現役時代 早朝にお墓参りにも来られたことがあると教えていただきました。お墓の右側には手形が石に彫られていました。さすがに昭和の大横綱 大きな手形でした。左側には自筆の色紙が彫られていました。夢と書かれた色紙。昭和のモーレツな時代に庶民の心をひきつけた英雄ともいえる存在です。「巨人、大鵬、玉子焼き」子供みんなが大好きなもの。当時の流行語です。生みの親は、作家でのちに経済企画庁長官も務めた堺屋太一とされる。堺屋が通商産業省(現在の経済産業省)の官僚だった1961年(昭和36年)度の経済報告の記者会見の席で「子供たちはみんな、巨人、大鵬、卵焼きが好き」と話して、それが広まることになった。もとは若手官僚の間で、強い巨人軍や大鵬、物価の優等生と呼ばれた鶏卵が「時代の象徴」だと冗談で話していたことがきっかけであったという。なることもあります。後にこの流行語をもじった「江川、ピーマン、北の湖」の記憶にあります。これは逆に子どもが嫌いなものと1970年代にメディアで聞くことがありました。北の湖関はあまりに強すぎて、憎たらしいほどの強さといわれました。
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