井草八幡宮

井草八幡宮は、南に善福寺川の清流を望み、今なお「武蔵野」の面影残る秀麗の地に鎮座し古地名を冠して遅野井八幡宮とも称せられました。
善福寺川の源泉である善福寺池が豊富な湧水であったことから、この付近にはかなり古くから人々が生活していたと考えられ、境内地及びその周辺地域からも縄文時代の住居跡や土器等が発見されています。
当宮は創建当時、春日社をお祀りしていましたが、源頼朝公が奥州藤原泰衡征伐の際に戦勝祈願をして立ち寄ったと伝わっており、それ以来八幡宮を奉斎するようになりました。奥州平定後、源頼朝公が報賽のため手植えしたと言われる松が当宮社殿前に雌雄二本植えられておりましたが、雌松(赤松)は明治初年に枯れ、都の天然記念物であった雄松(黒松)は昭和四十七年に強風で大枝が折れ、翌年には残念ながら枯れてしまいました。(現在は、二代目の松が植えられています)
源氏が八幡神を氏神として尊崇したことから武神の性格が強く、室町時代には石神井城の豊島氏征伐のため、扇ケ谷上杉家の執事太田道灌が戦勝祈願をしたとも伝えられています。江戸時代には、三代将軍徳川家光による六石余の朱印領 (将軍の朱印状によって領有を認められた土地)の給付、また寺社奉行井上正利に社殿造営をさせるなど、篤く崇敬されていました。
また、旧上井草・旧下井草は、正保二年(一六四五)以降、奥高家である今川氏の領地となり、とりわけ今川氏堯によって寛文四年(一六六四)に本殿の改築等なされ、寄進された一間四方の本殿は杉並区最古の木造建築物となり、現在も本殿として覆殿に納められています。
明治以降も氏子崇敬者によって社殿の改修、境内の整備が行われ、都内でも有数の広さ(約一万坪)を誇り、現在は神社本庁別表神社に指定されています。

 

歴史

縄文期から人々が生活していた此の地に神が祀られ、神社としての形態をととのえたのは平安時代末期といわれている。当初は春日神を祀っており、源頼朝が奥州討伐の折、八幡神を合祀して戦勝を祈願して以来八幡宮を合祀し、後年春日社を末社として奉斎するようになった。

文明9年には太田道灌が石神井城の豊島氏を攻むるに当たり、戦勝祈願をしたと云い伝えられている。

江戸幕府三代将軍の徳川家光は、寺社奉行井上正利をして社殿を造営し、 慶安2年に朱印領六石を寄進している。以降幕末まで歴代将軍から朱印地の寄進があった。その頃、氏子崇敬者により、石燈篭、石鳥居、狛犬、手水盤などが奉献された。

明治以降も氏子崇敬者によって社殿の改修や増築が繰り返され、同時に植林も行われた。

井草八幡宮へはJR荻窪駅からバスで数分で到着します。「井草八幡宮前」バス停で下車します。青梅街道と早稲田通りが交差するところが「井草八幡宮前」交差点となります。そこからは徒歩ですぐの場所にご鎮座されております。

青梅街道に面した大きな鳥居が目印となります。井草八幡宮より荻窪駅寄りには荻窪八幡神社があります。

ご由緒


ご祭神 応神天皇 (第15代天皇)
    進取的な事に霊験あらたかで、学問成就・家業隆昌・延命長寿・
    出世成功の守り神とされる。
ご由緒
   当八幡神社は、第59代・宇多天皇の寛平年間(約千百年前)に創祀さ
   れたものと伝えれ、第70代後冷泉天皇の永承6年に、鎮守府将軍・源
   頼義が奥州東征の途次此処に宿陣し、戦捷を祈願、後、康平5年凱旋す
   るにあたって社を修め、盛大な祭を行い、武将を駐めて永く祀らせたと
   いう。社の南一帯の丘地を「館」としたことから、この辺りを”城山”と
   呼んでいた。

     —現在はマンションが建ち並びその様子をうかがう事は困難である—
   降って文明9年、太田道灌が石神井城を攻略するにあたり軍神祭を行 
   い、社前に「高野槙」1株を植栽した。これが今なお社頭に聳える  
   「道灌槙」である。天正19年、柏木右近命を受けて検地をするに及び
   社殿を修復し、別当松永山不動王寺宮本坊大泉院を置いた。その後も村
   人の尊崇篤く、数度の御造営を経て現在に至る。
   平成23年3月には東日本大震災により、東参道の大鳥居が倒壊したが、
   氏子崇敬者の奉賛により同年9月、同規模の石造鉄骨入り大鳥居を再建
   した。「ホームページから」
比較的近くに八幡宮と八幡神社がご鎮座されているのは珍しいのではないかと思います。その昔 この地に有力な権力者が多数存在していたのかもしれません。

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