今日のご参拝

深川不動尊様へ行ってきました。東京に20年以上くらしていますが、初めてお参りしてきました。すぐ近くの富岡八幡様へは参拝したことはありました。今日、深川不動尊様へお参りに行く日は決めていました。天気予報は数日前まで雨でした。前日の天気予報は午前中雨で午後から曇りとなっていました。わたくしは結構晴れ男です。晴れて欲しい時には、かなりの確率で晴れ 悪くても雨が降らない天気になります。今回もそんな感じでした。

深川不動尊様にはかなりの参拝者がいました。旧本堂には大きな木造のお不動様がご鎮座されていました。迫力満点 怖い形相はあらゆる邪悪を許さない決意を感じます。しかし、見る角度を変えてみるとその怖い形相が 特に目が優しいと感じました。

HPには以下の記述があります。「深川不動堂は、千葉県成田市にある大本山成田山新勝寺の東京別院です。古くより「深川のお不動様」と親しまれて参りました。その開創は元禄16年と伝わり、成田山の御本尊を江戸に奉持し特別拝観したことに始まります。この御尊像は、弘法大師自らが敬刻開眼されたと言われており、現在深川不動堂で奉祀する御本尊はその御分霊を勧請した、御分身であります。成田山別院の嚆矢として法燈は今も守り継がれ、日々皆様の諸願成就をご祈念いたします。成田山新勝寺(以下「成田山」)の歴史は古く、御本尊の不動明王像は平安時代の初め、嵯峨天皇の勅願により弘法大師自らが敬刻し開眼したものと伝わります。その後は長らく京都の高雄山神護寺に奉安されていました。この御尊像が、はるか東国の下総国成田に遷座されることになったのは、朱雀天皇の天慶2年(939)に起こった「将門の乱」のときです。朝廷は真言宗の高僧寛朝大僧正に神仏の力による将門の調伏を命じました。そこで寛朝大僧正は、神護寺の不動明王像を奉持し、現在の成田の地に不動明王像を祀り調伏の護摩を修したのであります。 乱が治まり、寛朝大僧正は不動明王像を奉じて京都へ戻ろうとしますが、御尊像は根が生えたように動きません。そして不動明王は、「我再び王城へ帰ることを欲せず、永くこの地にとどまりて東国の鎮護とならん」と寛朝大僧正に告げたといいます。これを聞いた朱雀天皇は、この地に堂宇を建立させて東国の霊場とし、「成田山神護新勝寺」の寺号を下賜することとなりました。こうして成田山は創建されたのであります。 成田山が庶民信仰の対象として高い人気を得るようになったのは、江戸時代の中期です。ひとつには、生活にゆとりのできた商人が盛んに成田詣をするようになった一方、歌舞伎の市川團十郎丈が成田人気に拍車をかけます。子供に恵まれなかった初代團十郎が成田山の不動明王に祈願し、二代目團十郎を授かって以来、市川家は代々篤く成田山を信仰し、屋号を「成田屋」と称するほどで、「成田不動尊利生記」など成田山のご利益を物語った芝居を上演して大当りをとったといいます。

そうしたことと相まって、成田山の不動信仰は江戸庶民の中に広く浸透していきました。江戸庶民の人気に支えられ、元禄16年(1703)に第一回目の出開帳が富岡八幡宮の別当寺である永代寺で行われました。本尊の不動明王像を成田山から運び、江戸の人々に公開したのであります。これには、5代将軍綱吉の生母桂昌院も参拝しました。一説には、成田不動尊の尊信篤き桂昌院が、護国寺の高僧隆光を動かし出開帳を実現させたともいわれます。以来出開帳はたびたび行われ、大勢の江戸っ子が押し寄せ大いに賑わったと伝えられております。不動信仰はますます盛んになる中で、信徒講社が結成されました。一つは日本橋の魚市場、米屋町を中心とした深川佐賀町の米市場、木場、蛤町の講社であり、もう一つは蔵前の札差、米問屋に加え、俳優・花柳界・鳶からなる浅草方面の講社でした。明治元年(1868)に神仏分離令とそれにもとづく廃仏運動のなかで、信徒講社は永続的な御旅所確立のために深川移転説を主張し、成田山当局にも熱心に働きかけました。その結果、旧来しばしば出開帳を行った特縁の地である現在地に、不動明王御分霊が正式に遷座されたのであります。「深川不動堂」の名のもとに堂宇が完成したのは、それから13年後の明治十四年(1881)のことでした。」

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