大江さんについてさらにウイキペディアに以下の記述があります。
国際的な作家へ ─ 万延元年のフットボール、洪水はわが魂に及び、同時代ゲーム
1967年、30代最初の長編として『万延元年のフットボール』を発表し、最年少(2019年現在破られていない)で第3回谷崎潤一郎賞を受賞する。遣米使節が渡航した万延元年(1860年)から安保闘争(1960年)までの百年を歴史的・思想史的に展望して四国の森の谷間の村に起こる「想像力の暴動」とさまざまに傷を抱えた家族の恢復の物語を描いた。1968年、新宿の紀伊國屋ホールにて月例の連続講演を一年間行い、これは『核時代の想像力』(1970年)としてまとめられた。この頃からガストン・バシュラールに依拠して、現実を変えていく力としての「想像力」論を打ち出していく。1968年、『個人的な体験』の英訳 “A Personal Matter” が出版されている。
この頃から海外の作家との交流が盛んになる。1968年にオーストリアのアデレード芸術祭に参加し、エンツェンスベルガー、ビュトールと面会する。1970年、1973年にはアジア・アフリカ作家会議に参加。1977年、ハワイ大学のセミナー「文学における東西文化の出会い」に参加しアレン・ギンズバーグ、ウォーレ・ショインカと対話する。また70年代には文芸誌「新潮」「海」においてアップダイク、ギュンター・グラス、バルガス・リョサと対談している。
1971年、1972年に発表した二つの中篇「みずから我が涙をぬぐいたまう日」「月の男(ムーン・マン)」では、前年の三島由紀夫のクーデター未遂と自決を受けて天皇制を批判的に問い直すことを主題とした。1973年には『洪水はわが魂に及び』を発表し、第26回野間文芸賞を受賞。本作は核状況下における終末観的な世界把握の下に構想されており、破滅へ向かう先進文明に対抗するものとしてのスピリチュアルな祈りを主題としている。1974年には『万延元年のフットボール』の英訳 “The Silent Cry” が出版されている。
1975年、大学時代の恩師の渡辺一夫が肺癌で死去し、大きなショックを受けた。立ち直りのきっかけを求めて1976年にメキシコに渡り、コレヒオ・デ・メヒコの客員教授として日本の戦後思想史の講座を受け持つ。現地でオクタビオ・パスやフアン・ルルフォ、メキシコに居を構えていたガブリエル・ガルシア=マルケスらラテン・アメリカの文学者と知り合う。1976年に発表された『ピンチランナー調書』は天皇制や核の問題を主題としている。
1978年には「遅れてきた構造主義者」と称してちょうど日本に紹介され始めたバフチン、ロシア・フォルマリズムなどの思想潮流や山口昌男の理論などを参照して『小説の方法』を出版している。1979年に発表された原稿用紙1,000枚の大作『同時代ゲーム』において、故郷の森の谷間の「村=国家=小宇宙」の神話や歴史を描いた。大江はこれを自らの文学的な人生の大きい柱の作品と位置付けており実際、本作にはこれ以前の大江作品のさまざまなモチーフが回収され、以降の作品に現れる要素も胚胎している。1980年から1982年にかけて、中村雄二郎、山口昌男とともに編集代表を務めて論集「叢書文化の現在」(全13巻)を編纂して、学際的な新しい「知」の枠組みを提示する。
円熟へ 連作短編の時代 ─ 「雨の木」を聴く女たち、新しい人よ眼ざめよ
1982年、荒涼とした世界における男女の生き死にを見つめた連作短編集『「雨の木(レイン・ツリー)」を聴く女たち』を発表して、翌1983年に第34回読売文学賞受賞(本作と武満徹との関係は、後述「関わりの深い人物」項目を参照)。本作以降の大江は多くの作品において、作家自身を思わせる小説家を語り手として、自分の経験や思索を虚構化していく。また自作の引用、自己批評、書き直しや西洋の古典(本作においてはマルカム・ラウリーである)との対話によって、読むこと書くことの試行錯誤そのものを小説に書き込むようになる。
1983年の連作短編集『新しい人よ眼ざめよ』ではウィリアム・ブレイクの預言詩や、それに関連する研究を読むことで導かれた思索を織り交ぜながら、知的障害をもつ長男・光を中心とした家族の日常を私小説的に描き、第10回大佛次郎賞を受賞する。ここで女性詩人でブレイク研究者キャスリーン・レインを大きな導き手としてネオ・プラトニズムに触れ、大江文学中期のテーマである「魂の問題」「再生」といった神秘的な問題を掘り下げ始めるようになった。同年、カリフォルニア大学バークレー校に共同研究員として滞在している。
1984年、磯崎新、大岡信、武満徹、中村雄二郎、山口昌男とともに編集同人となり、季刊誌「へるめす」を創刊(『M/Tと森のフシギの物語』『キルプの軍団』『治療塔』『治療塔惑星』は同誌に連載された)。当時の出版界が「知」のブームが沸く中で創刊された本誌は1980年代を代表する知識人の拠点となる。同年、国際ペンクラブ東京大会に参加して、講演「核状況下における文学─なぜわれわれは書くか」を行い、カート・ヴォネガット、アラン・ロブ=グリエ、ウィリアム・スタイロンと対話する。1985年、連合赤軍事件を文学の仕事として受け止め直す連作短編集『河馬に嚙まれる』を発表する。表題作で第11回川端康成文学賞を受賞している。同年『万延元年のフットボール』のフランス語訳 “Le jeu du siècle” がガリマール出版社より刊行されている。
まだまだ大江さんの記述はあります。また、次回に続きます。
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