大江さんについて3回目のアップとなります。ウイキペディアに以下の記述があります。
ノーベル賞受賞まで ─ 懐かしい年への手紙、燃えあがる緑の木
1986年には『同時代ゲーム』の世界をリライトした『M/Tと森のフシギの物語』を発表する。このリライトは難渋であるとして読者に十分に受け入れられなかった『同時代ゲーム』を平易にすると同時に『同時代ゲーム』において十分に展開しきれなかった「魂の再生」のテーマを追求する意味合いがあった。1987年にはダンテの『神曲』を下敷きにした虚実綯い交ぜのメタ・フィクショナルな自伝『懐かしい年への手紙』を発表する。『同時代ゲーム』以来の原稿用紙1,000枚の大作で、『芽むしり仔撃ち』以来描き続けてきた森の谷間の小宇宙を統合する試みであった。前者は1989年に “M/T et l’histoire des merveilles de la forêt” のタイトルで、後者は1993年に “Lettres aux années de nostalgie” のタイトルで、フランス語訳がガリマール社より刊行された。
1989年の『人生の親戚』では長編で初めて女性を主人公とし、子供を自殺で失った女性の悲嘆とその乗り越えを描いて第1回伊藤整文学賞を受賞する。1990年に発表されたSF『治療塔』とその続編の『治療塔惑星』(1991年)では、イェーツの詩を引きながら核時代の危機と人類救済の主題を描いている。1990年、連作短編集『静かな生活』を発表。『新しい人よ眼ざめよ』において主題となった知的障害を持つ長男との共生の体験を、彼の妹の視点を通して改めて描いている。この時期の大江は女性を語り手に選び、それに見あった語り口を模索している。また超越的な存在と自分自身の関係を問い直そうとしている。
1993年9月より原稿用紙2,000枚に及ぶ三部からなる長編『燃えあがる緑の木』の連載を開始する。『懐かしい年への手紙』の後日譚として、四国の森の中の谷間の村を舞台とした「教会」の勃興から瓦解に至るまでの過程を、両性具有の若い女性の視点を通して描き、「魂の救済」の問題を描き尽くした。連載当時はこれを「最後の小説」としていた。
『燃えあがる緑の木』連載中の1994年、「詩的な想像力によって、現実と神話が密接に凝縮された想像の世界を作り出し、読者の心に揺さぶりをかけるように現代人の苦境を浮き彫りにしている(who with poetic force creates an imagined world, where life and myth condense to form a disconcerting picture of the human predicament today)」という理由でノーベル文学賞を受賞する。川端康成以来26年ぶり、日本人では2人目の受賞者であった。ストックホルムで行われた受賞講演は川端の「美しい日本の私」をもじった「あいまいな日本の私」というものであった。ここで大江は、川端の講演は極めてvague(あいまい、ぼんやりした)であり、閉じた神秘主義であるとし、自分は日本をambiguous(あいまい、両義的)な国として捉えると述べた。日本は、開国以来、伝統的日本と西欧化の両極に引き裂かれた国であるとの見方を示し、小説家としての自分の仕事は、ユマニスムの精神に立って「言葉によって表現する者と、その受容者とを、個人の、また時代の痛苦からともに恢復させ、それぞれの魂の傷を癒す」ことであると述べた。
小説執筆の一旦の終了を受けて1996年より新潮社より『大江健三郎小説』(10巻)が刊行開始された。これは全集ではなく、作者が吟味し基準に適うもののみが収録された。長編でいうと初期作品の『われらの時代』『夜よゆるやかに歩め』『青年の汚名』『遅れてきた青年』『日常生活の冒険』は収録されなかった。
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