大江健三郎さん

大江健三郎さんが亡くなったそうです。大江さんにつてあまりしりません。日本人として二人目のノーベル文学賞を受賞した方・・・また、大江さんの著書を読んだこともありません。大江さんの本は難解とも聞いていることもあり、敬遠しています。そこで今回 大江さんについて調べてみます。ウイキペディアに以下の記述があります。

大江 健三郎(おおえ けんざぶろう、1935年〈昭和10年〉1月31日 – 2023年〈令和5年〉3月3日)は、日本の小説家。昭和中期から平成後期にかけて現代文学に位置する作品を発表した。愛媛県喜多郡大瀬村(現:内子町)出身。

東京大学文学部仏文科卒。学生作家としてデビューして、大学在学中の1958年、短編「飼育」により当時最年少の23歳で芥川賞を受賞。新進作家として脚光を浴びた

新しい文学の旗手として、豊かな想像力と独特の文体で、現代に深く根ざした作品を次々と発表していく。1967年、代表作とされる『万延元年のフットボール』により歴代最年少で谷崎潤一郎賞を受賞した。

1973年に『洪水はわが魂に及び』により野間文芸賞、1983年に『「雨の木(レイン・ツリー)」を聴く女たち』により読売文学賞(小説賞)など多数の文学賞を受賞。1994年、日本文学史上において2人目のノーベル文学賞受賞者となった。

核兵器や天皇制などの社会的・政治的な問題、知的な障害をもつ長男(作曲家の大江光)との共生、故郷の四国の森の谷間の村の歴史や伝承、などの主題を重ね合わせた作品世界を作り上げた

上記以外の主な作品に『芽むしり仔撃ち』『個人的な体験』『同時代ゲーム』『新しい人よ眼ざめよ』『懐かしい年への手紙』『燃えあがる緑の木』『取り替え子(チェンジリング)』『水死』などがある

戦後民主主義の支持者を自認し、国内外における社会的な問題への発言を積極的に行っていた

来歴

生い立ち

1935年1月31日、愛媛県喜多郡大瀬村(現:内子町)に生まれる。両親、兄二人、姉二人、弟一人、妹一人の9人家族であった。大瀬村は森に囲まれた谷間の村で、のちに大江の作品の舞台となる。1941年、大瀬小学校に入学。この年に太平洋戦争が始まり、5年生の夏まで続いた。1944年、父親が50歳で心臓麻痺で急死している。1947年、大瀬中学校に入学。1950年、愛媛県立内子高等学校に入学するも、いじめを原因に翌年愛媛県立松山東高等学校へ転校する。高校時代は石川淳、小林秀雄、渡辺一夫、花田清輝などを読む。松山東高校では文芸部に所属し部誌「掌上」を編集、自身の詩や評論を掲載した。同校において同級生だった伊丹十三と親交を結ぶ。

1953年に上京し、浪人生として予備校に通ったのち、1954年に東京大学教養学部文科二類(現在の文科III類)に入学。演劇脚本や短編の執筆を始める。1955年、小説「優しい人たち」が「文藝」第三回全国学生小説コンクールで入選佳作となる。同年、小説「火山」が銀杏並木賞第二席となり、教養学部の学内誌に掲載されて作品が初めて活字となる。この頃、ブレーズ・パスカル、アルベール・カミュ、ジャン=ポール・サルトル、ノーマン・メイラー、ウィリアム・フォークナー、安部公房などを読む。1956年、文学部仏文科に進み、高校時代より著作を愛読し私淑してきた渡辺一夫に直接師事する。小説「火葬のあと」が「文藝」第五回全国学生小説コンクール選外佳作となる。東大学生演劇脚本の戯曲「獣たちの声」(「奇妙な仕事」の原案)で創作戯曲コンクールに入選する

芥川賞作家として ─ 飼育、芽むしり仔撃ち、個人的な体験

1957年、五月祭賞受賞作として小説「奇妙な仕事」が「東京大学新聞」に掲載され、文芸評論家平野謙の激賞を受ける。これを契機として、短編「死者の奢り」により学生作家としてデビューし、続々と短編を各文芸誌に発表するようになる。「死者の奢り」は第38回芥川賞候補となる。1958年、自身初の長編小説である『芽むしり仔撃ち』を発表する。大江の故郷の村をモデルにした[13]閉ざされた山村を舞台にして、社会から疎外された感化院の少年たちの束の間の自由とその蹉跌を描いた。同年、短編「飼育」により第39回芥川賞を23歳で受賞する。

1959年、東京大学卒業。卒業論文は「サルトルの小説におけるイメージについて」であった。同年、書き下ろし長編『われらの時代』を刊行する。政治などの現実社会から内向的な性の世界へと退却する、停滞状況にある現代青年を描く。この時期の大江の、性を露骨に描いて日常的規範を攪拌させる方法はノーマン・メイラーの影響を受けている。この年成城に転居し、近所に住む武満徹と親交が始まる。1960年、伊丹十三の妹のゆかりと結婚。同年、石原慎太郎、江藤淳、浅利慶太らと「若い日本の会」で活動をともにし、日米安保条約(新安保条約)締結に反対する。「日本文学代表団」の一員として、野間宏、亀井勝一郎、開高健らとともに中国を訪問して中国の文学者と交流し、毛沢東と対面している

1961年、中編「セヴンティーン」と続編「政治少年死す(セヴンティーン第二部)」を発表する。浅沼稲次郎暗殺事件に触発されて、オナニストの青年が天皇との合一の夢想に陶酔して右翼テロリストとなる様を描いたが、同じ頃に発表された深沢七郎の『風流夢譚』と同様に右翼団体からの脅迫に晒された(このため「政治少年死す(セヴンティーン第二部)」はその後の単行本に収められていなかったが、2018年『大江健三郎全小説3』で遂に「セヴンティーン」と併せて収録された)。同年、ブルガリアとポーランドの招きに応じて、両国やソ連、ヨーロッパ各地を訪問して、パリでサルトルにインタビューを行っている

1963年、長男の光が頭蓋骨異常のため知的障害をもって誕生する。1964年、光の誕生を受けての作品『個人的な体験』により第11回新潮社文学賞を受賞。知的障害をもって生まれた子供の死を願う父親が、さまざまな精神遍歴の末、現実を受容して子供とともに生きる決意をするまでの過程を描いた作品である。同年、広島に何度も訪れた体験や、原水爆禁止世界大会に参加した体験を基にルポルタージュ『ヒロシマ・ノート』の連載を開始する。障害を持つ子との共生、核時代の問題という終生の大きなテーマを同時に二つ手にしたこの年は、大江にとって重大な転機の年であった。1965年、広島について報告するためにキッシンジャーのセミナーに研究員として参加して、ハーヴァード大学に滞在している

大江さんについてはさらに調べて参ります。

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