日本人は忠臣蔵が大好きです。12月には必ず何らかの形で忠臣蔵のテレビ番組や映画が流されます。「ときに元禄十五年十二月十四日
江戸の夜風をふるわせて
響くは山鹿流儀の陣太鼓
しかも一打ち二打ち三流れ
思わずはっとたちあがり
耳を澄ませて太鼓を数え」
山鹿流の陣太鼓・・・山鹿流と山鹿素行って関係あるのかな・・・赤穂浪士との関係は・・・ウイキペディアには以下の記述がありました。
山鹿流(やまがりゅう)は、山鹿素行によって著された兵学(兵法)の流派。
山鹿流の概要
林羅山に入門して漢学教育を受けた山鹿素行は、仏教、道教の思想にも通じ、神道和学の故実を踏まえて甲州流軍学の小幡景憲、北条流の祖・北条氏長の門下として軍学の修得をした。山鹿流は、単に戦法学というより、太平の時代に士道学としての広い構想の下に講受された。事理一体を基盤とし、道源・学問・力行の三要を力説し、「修教要録」「治教要録」に則って、修身、治国の大道を強調、武経兵法、兵法戦法論を研究しながら、実学・教学に重点を置いた士道教育がなされた。
教義・思想
兵法
- 「天守は戌亥(北西)の吉方に置くべし」(『武教全書』第三・築城)
- 「仇討ちは、天下の大道にて目のある場(衆人環視)で討ち果たすが手柄と云うべし。放し(自由に行動できること)の敵が家中に居るを、人知れず踏み込むは悪しき下策なり。是れ夜盗と大差なし」(『山鹿語類』、巻二十九)
- 「また、敵と狙われし者は疾く逃ぐるに若かず。隠るなどして討たれぬ工夫するが分別なり。それを臆病などと謗るは訳知らずと言へり。果し(両者合意)に有らずを避け、命を惜しむは恥にあらず」(同、士談八・報仇論)
日本的聖学
- 「万世一系の天子(天皇陛下)を戴く本朝(日本)こそ中華(中国という意味でなく、聖賢の国・理想の国の意)なり」(『中朝事実』)
- 「抑々天下は正統と云ふことを弁ずべし。天応じ人順ひて、共に天子の位を嗣続あること也」
士道
- 「士たるものは人倫の道を実践し、農・工・商の模範と成り、三民を教化していかねばならぬ」(『武教小学』)
- 「士は怒りにまかせ行動すべからず。憤怒の心は身を亡ぼす」(『山鹿語類』、巻五)
- 「武は不祥の器なり。国家人民のことにかからざれば用いるべからず。天下国家を思わず、我一人我が家のみの為に使う兵、民これにより死して国滅ぶ」(『孫氏諺義』第十四)
- 「自身の高名誉の儀之有りと雖も、公儀御為に対し然るべからざる儀は、武を以て為すを許容致すべからざる事」(『武教全書』巻四)
君臣論
- 「凡そ君臣の間は他人と他人の出合にして、其の本に愛敬すべきゆゑんあらず」
- 「例ひ君たりとも、道に則って自身を制御できぬ者、君にあらず」
- 「君を屡諫めても用ひられぬ時、君に礼の欠く時は自ら去り、士は二君に仕えるべし」(『山鹿語類』巻十三・君臣論)。
- 「君のために百年の命を截つ、夏虫の火に入りて死するにも同じくして、愚かなり」
山鹿流の伝系
素行の兵学直門は140名くらい。直系、血縁者で山鹿流を受け継いだのは、津軽藩の山鹿嫡流と女系二家、平戸藩の山鹿傍系と庶流男系の両氏である。
素行の兵学を講受した諸大名・旗本には、津軽信政 、津軽信寿 、津軽政兕、戸田忠真 、松浦鎮信 、松浦長祐 、大村守純 、稲垣重昭 、小笠原長祐 、小笠原長重 、本多忠真らがいる。 素行日記・年譜に吉良義央の名がよく登場する。吉良氏秘伝の『吉良懐中抄』が山鹿素行によって書写されて、山鹿高基が仕えた松浦家に継承され令和の御代まで現存している。
筑後国柳川藩でも山鹿流兵法師範がおり、文久年間に柳川藩士卒が山鹿流に編成された。加賀藩では、甲州流兵学者・関屋政春(有沢永貞の伯父)が素行に山鹿流を学んだことで広がった(加賀有沢流)。
弘前藩(嫡流)
- 津軽山鹿流伝系
山鹿素行→山鹿政実→山鹿高豊→山鹿高直→山鹿高美…山鹿素水→吉田松陰→木戸孝允
山鹿政実に学んだ津軽政兕は赤穂事件の直後に、真っ先に家臣らと吉良邸に駆けつけ、義央の遺体を発見し負傷者の救助に協力した。また赤穂浪士らは黒石津軽家と弘前藩津軽家からの討手の追い討ちを警戒し、泉岳寺まで最短距離ではない逃走ルートを、かなりの早足で撤退したと伝わる。この様子は同じく山鹿流が伝わる平戸藩にも記されている。
政実の影響で津軽藩中の多くが赤穂浪士には批判的であり、津軽信政(実際は実権を得た津軽信寿および大道寺直聴の判断)により、赤穂浪士に同情した滝川主水を宝永5年(1708年)に閉門、知行没収の厳罰に処し、墓や供養塔の破却を命じている。また、重臣の乳井貢が素行に倣い朱子学を批判するのみならず、元禄赤穂事件をも激しく非難する著作を発表している 。
この系統から幕末に兵法学者として活躍した山鹿素水が出た。素水は、大垣藩士・小原鉄心、豊後岡藩士・鵜飼枝美など各藩の有力者に山鹿流を伝授した。また諸国放浪の際に九鬼隆都(丹波綾部藩主)に見いだされ、異例の知遇を得ている。
他に素行の2人の娘は三次浅野家の臣から津軽信政に仕した山鹿高恒と、のちに津軽藩家老になる門人、津軽政広に嫁した。
維新回天[編集]
幕末に長州藩では、吉田松陰が相続した吉田家が代々、藩学である山鹿流師範家となっており、吉田松陰は藩主毛利敬親の前で「武教全書」戦法偏三の講義を行っている。松陰は叔父にあたる玉木文之進から山鹿流を授している。江戸に出た松陰は肥後の山鹿流兵学者・宮部鼎蔵と交流を深めた。吉田松陰と宮部鼎蔵は1851年(嘉永4年)、山鹿素水に学んでいる。 明治維新で活躍した高杉晋作、久坂玄瑞、木戸孝允、山田顕義ら長州藩の松陰門下生は、藩校・明倫館、松下村塾で山鹿流を習得している。
玉木文之進から山鹿流を講授された長州藩出身の 乃木希典は、明治天皇に殉死する前の大正元年(1912年)9月10日、学習院長として養育にあたっていた裕仁親王時代の昭和天皇、淳宮雍仁親王(後の秩父宮雍仁親王)、光宮宣仁親王(後の高松宮宣仁親王)に対し、山鹿素行が記した山鹿流の神髄である尊王思想の歴史書である「中朝事実」を自ら筆写して献呈した。
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