徳川家康2

前回に続き徳川家康について調べてみました。面白い記述がありました。ウイキペディアには以下の通りの記述があります。

容貌
家康に謁見したルソン総督ロドリゴ・デ・ビベロは、著作の『ドン・ロドリゴ日本見聞録』で、家康の外貌について「彼は中背の老人で尊敬すべき愉快な容貌を持ち、太子(秀忠)のように、色黒くなく、肥っていた」と記している。下腹が膨れており、自ら下帯を締めることができず、侍女に結ばせていたとされるが(『岩淵夜話』)、そのような過度な肥満を裏付けるような家康の甲冑・衣装は確認されていない。家康着用の辻ヶ花染の小袖は、身丈139.5cm、背中の中心から袖端まで59cmの長さがあるため、身長は155cmから160cmと推定される
武術の達人
  • 剣術は、新当流の有馬満盛、上泉信綱の新陰流の流れをくむ神影流[注釈 50] 剣術開祖で家来でもある奥平久賀(号の一に急賀斎)に元亀元年(1570年)から7年間師事。文禄2年(1593年)に小野忠明を200石(一刀流剣術の伊東一刀斎の推薦)で秀忠の指南として、文禄3年(1594年)に新陰流の柳生宗矩[注釈 51] を召抱える。塚原卜伝の弟子筋の松岡則方より一つの太刀の伝授を受けるなど、生涯かけて学んでいた。ただし、家康本人は「家臣が周囲にいる貴人には、最初の一撃から身を守る剣法は必要だが、相手を切る剣術は不要である」と発言したと『三河物語』にあり、息子にも「大将は戦場で直接闘うものではない」と言っていたといわれる。
  • 馬術も、室町時代初期の大坪慶秀を祖とする大坪流を学んでいる。小田原征伐の際に橋をわたるとき、周囲は家康の馬術に注目したが、家康本人は馬から降りて家臣に負ぶさって渡った(『武将感状記』)。
  • 弓術については三方ヶ原の戦いにおいて退却途中に、前方を塞いだ武田の兵を騎射で何人も射ち倒して突破している(『信長公記』)。
  • 鉄砲も名手だったと云われ、浜松居城期に5.60間(約100m)先の櫓上の鶴を長筒で射止めたという。また鳶を立て続けに撃ち落としたり、近臣が当たらなかった的の中央に当てたという(『徳川実紀』)。
好学の士
家康は実学を好み、板坂卜斎は家康について「『論語』『中庸』『史記』『貞観政要』『延喜式』『吾妻鑑』を好んだ」と記載している。家康はこれらの書物を関ヶ原以前より木版(伏見版)で、大御所になってからは銅活字版(駿府版)で印刷・刊行していた。特に『吾妻鑑』は散逸した史料を集めて後の「北条本」を開板し、また林羅山に抄出本を作成させており、吾妻鑑研究の草分け的存在と言える。また『源氏物語』の教授を受けたり、三浦按針から幾何学や数学を学ぶなど、その興味は幅広かった。
古典籍の蒐集に努め、駿府城に「駿河文庫」を作り、約一万点の蔵書があったという。これらは御三家に譲られ、「駿河御譲本」と呼ばれ伝わっている。
南蛮から贈られた薄石が瑪瑙と知らされたおり、『本草綱目』で確認させたように実証的であった
多趣味
鷹狩と薬作りが家康の趣味として特に有名であるが、他にも非常に多くの趣味があった。

  • 鷹狩は、府中御殿に滞在しながら[注釈 52] お鷹の道で行われたとの記録が残っているほか、家康の鷹狩にちなむ地名[147]や青山忠成や内藤清成の駿馬伝説などの伝説を各地に残すことになった。家康の鷹狩に対する見方は独自で、鷹狩を慰め(気分転換)のための遊芸にとどめずに、政治的・軍事的視察も兼ねた、身体を鍛える一法とみなし、内臓の働きを促して快食・快眠に資する摂生(養生)と考えていた(『中泉古老諸談』)
  • 薬作りは、八味地黄丸など生薬調合を行い、この薬が、俗に「八の字」とよばれていたことから、頭文字の八になぞらえ、八段目の引き出しに保管していた。「薬喰い」とも言われる獣肉を食すなど記録が多い。駿府城外には家康が開いた薬園があり、死後に廃れたが享保年間に復興した。
  • 猿楽(現在の名称は能)は、若いころから世阿弥の家系に連なる観世十郎太夫に学び、自ら演じるだけでなく、故実にも通じていた。このためもあってか、能は江戸幕府の式楽とされた。特に幸若舞を好んだという。駿府城三の丸には能楽専用の屋敷があり、家康は度々家族や大名・公家と共に観覧した。
  • 囲碁の本因坊算砂を天正15年(1587年)閏11月13日、京都から駿府に招いている。家臣の奥平信昌が京都で本因坊の碁の門下となり下国の際に駿府へ連れてきたとされる。自身で嗜んだのみならず家元を保護し、確立した功績から、家康は囲碁殿堂に顕彰されている。
  • 将棋は一世名人・大橋宗桂に慶長17年(1612年)に扶持を与える。この功績により、平成24年(2012年)の名人制度400年を記念して、将棋十段の推戴状が贈呈される
  • 香道を好み薫物たきものの用材として、東南アジア各国へ宛てた国書の中で特に極上とされた伽羅を所望する記述があり、遺品にも高品質の香木が多数遺されている。なお有名な蘭奢待については、慶長7年6月10日、東大寺に奉行の本多正純と大久保長安が派遣されて正倉院宝庫の調査を実施し、現物の確認こそしたものの、切り取ると不幸があるという言い伝えに基づき切り取りは行わなかった(『当代記』)。同8年2月25日、開封して修理が行われている(続々群書類従所収「慶長十九年薬師院実祐記」)

まだまだ面白い記述がありますので次回にアップします。

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