戦艦大和3

前回に引き続き戦艦大和についてウイキペディアの記述をアップします。

レイテ沖海戦

昭和19年(1944年)10月22日、ブルネイからレイテ湾へ出撃する栗田艦隊。
(右から長門・武蔵・大和、高雄型重巡洋艦4隻(摩耶・鳥海・高雄・愛宕)・羽黒・妙高。

1944年(昭和19年)10月22日、大和はレイテ沖海戦に参加するため第二艦隊(通称栗田艦隊)第一戦隊旗艦としてアメリカ軍上陸船団の撃破を目指しブルネイを出撃した。だが、23日早朝に栗田艦隊の旗艦・重巡愛宕がアメリカの潜水艦の雷撃で撃沈されたため、大和に座乗の第一戦隊司令官の宇垣中将が一時指揮を執った。夕方に栗田中将が移乗し第二艦隊旗艦となったが、2つの司令部が同居したため艦橋は重苦しい空気に包まれた

昭和19年(1944年)10月24日、シブヤン海海戦で米軍機の爆撃に対して回避行動を取る大和。

24日、シブヤン海でアメリカ軍艦載機の雷爆撃により大和の姉妹艦である武蔵が撃沈された。このとき、大和にも艦前部に爆弾1発が命中している。25日午前7時、サマール島沖にてアメリカ護衛空母艦隊を発見し、他の艦艇と共同して水上射撃による攻撃を行った

この戦闘で、大和は主砲弾を32,000mの遠距離から104発発射した。この砲撃に対し護衛空母「カリニン・ベイ」は「射程距離は正確だが、方角が悪い」と評している。当時大和砲術長だった能村(後、大和副長)によれば、射撃した前部主砲6門のうち徹甲弾は2発のみで、残る4門には三式弾が装填されていたと証言している。都竹卓郎が戦後両軍の各文献と自身の記憶を照らしたところによれば、『戦藻録』の「31キロより砲戦開始、2、3斉射にて1隻撃破、目標を他に変換す」が概ねの事実で、最初の「正規空母」は護衛空母ホワイト・プレインズで、次の艦はファンショー・ベイである。至近弾による振動でホワイト・プレインズは黒煙を噴き、大和ではこれを「正規空母1隻撃破」と判断して他艦に目標を変更したものらしい。アメリカ軍側の記録では、ホワイト・プレインズは命中の危険が迫ったために煙幕を展開したとしている。能村副長は、第一目標に四斉射した後「アメリカ軍の煙幕展開のため目標視認が困難となり、別の空母を損傷させようと目標を変更」と回想している。また、軍艦大和戦闘詳報第3号でも敵空母が煙幕を張り大和から遠ざかる様に回避したため目標を他に移したと報告されている。

シブヤン海を航行中にアメリカ軍機の攻撃を受け回避行動を取る戦艦大和。魚雷攻撃を避けるため左へ回頭するところで、大和の左舷前方にはアメリカ軍機が投下した魚雷の航跡らしき白い筋が見える。

戦闘中、大和はアメリカ軍の駆逐艦が発射した魚雷に船体を左右で挟まれ、魚雷の射程が尽きるまでアメリカ軍空母と反対方向に航行することになった。さらにアメリカ軍駆逐艦の効果的な煙幕や折からのスコールによって、光学測距による射撃は短時間に留まった。戦闘の後半で、仮称二号電波探信儀二型を使用したレーダー射撃を実施した。この戦闘では、大和右舷高角砲と機銃が沈没する米艦と脱出者に向けて発射され、大和の森下艦長と能村副長が制止するという場面があった

アメリカ軍の護衛空母ガンビア・ベイに大和の主砲弾1発が命中して大火災を起こしたと証言もあるが、利根型重巡洋艦1番艦利根艦長黛治夫大佐は、著書で「戦艦部隊の主砲弾で敵空母が大火災を起こしたような事実はなかった」と強く反論している。アメリカ側の記録にも該当する大火災発生の事実はなく、ガンビア・ベイは午前8時15分に重巡羽黒と利根の20.3センチ砲弾を受けたのが最初の被弾とされている。ガンビア・ベイへの命中弾という説は大岡昇平も「よた話」として採り上げている

昭和19年(1944年)10月25日、米護衛空母ペトロフ・ベイ艦載機が撮影した写真。手前が大和で後方は重巡利根もしくは筑摩とされる。比島沖海戦時の記録写真で、撮影日は1944年(昭和19年)10月25ないし26日。海戦は23日から始まり、26日まで4日間続いた

昭和19年(1944年)10月25日、回避行動をとる大和と僚艦。大和の後方からアメリカ軍機が一機、攻撃を仕掛けようとしている。アメリカ軍空母艦載機による撮影。

アメリカ側では0725-0730頃、駆逐艦ホーエル、ジョンストンが戦艦からの主砲・副砲弾を受けた。アメリカ側が両艦を砲撃した戦艦としている金剛では0714に砲撃を開始し、2射目が有効であったとしているが、0715には大和、長門、榛名も駆逐艦、巡洋艦を目標に砲撃を行っている他、ホーエルが艦橋に命中弾を受け通信機能を失った0725には、大和が巡洋艦を目標に砲撃を行い撃沈を報じている。このため、0728にジョンストン、0725にホーエルに命中したのは大和、長門、金剛、榛名いずれかの主砲弾である可能性がある。また、第五戦隊(羽黒、鳥海)、第七戦隊(利根、筑摩)もホーエル、ジョンストンを砲撃しており、特にホーエルは0750以降に重巡部隊と大和、長門による集中砲火を浴び、40発の命中弾を受け、0830にその内の8インチ砲弾一発がエンジンルームを破壊して航行不能に陥ったが、0834に大和は他艦と共にこのホーエルに対して追撃を加え、0835にはホーエルは船尾より沈み始め、0855に遂に転覆する事となった。ジョンストンは0725の砲撃で被害を受けたものの、スコールに退避する事に成功したため、応急修理を行った後再び戦闘に復帰していたが、0845に軽巡矢矧を先頭に第十戦隊が空母群に魚雷攻撃を仕掛けようと、急速に接近している事を認めたジョンストンは、矢矧に砲撃を加え水雷戦隊が空母群に接近する事を防ぐ事に成功したものの0940に包囲され集中砲火を浴び沈没した。このため、この海戦で大和が単艦で敵艦を葬った可能性はないという事になる。なお、この海戦で0850以降に大和が重巡洋艦鳥海を誤射したという説もあるが、大和は0834以降は砲撃を行っておらず、唯一0847に金剛が砲撃を行っていたのみであるため、大和が鳥海及び筑摩を誤射した可能性は無い。

雑誌『丸』(2015年)にて、当時の羽黒乗組員である石丸法明が鳥海の被弾を羽黒艦橋で目撃した元良勇(羽黒通信長)、被弾した鳥海からの通信を羽黒電信室で受信した南里国広(二等兵曹、信号兵)、および当時の戦艦金剛乗組員3人の証言から、「金剛による誤射だった」という説を提唱している。

アメリカ軍の損害は、護衛空母ガンビア・ベイと駆逐艦ジョンストン、ホーエル、護衛駆逐艦サミュエル・B・ロバーツが沈没というものだった。この直後、関行男海軍大尉が指揮する神風特攻隊敷島隊が護衛空母部隊を急襲、体当たりにより護衛空母セント・ローが沈没、数隻が損害を受けた

アメリカ戦史研究家のRobert Lundgrenの研究によれば、この海戦による大和による砲撃の効果は以下の通り

護衛空母「ホワイト・プレインズ」:至近弾とはいえ、ホワイト・プレインズは大きく揺さぶられて機関室が破壊された。
駆逐艦「ジョンストン」:46cm砲弾3発被弾、15cm砲弾3発被弾。

サマール島沖砲撃戦の後、栗田長官は近隣にアメリカ機動部隊が存在するとの誤報を受けてレイテ湾に突入することなく反転を命じた。宇垣中将の著作には、当時の大和艦橋の混乱が描写されている。引き返す途中、ブルネイ付近でアメリカ陸軍航空隊機が攻撃にきた。残弾が少ないため近距離に引き付け対空攻撃をし、数機を撃墜した

米空母フランクリン艦載機の攻撃により、一番砲塔近辺に直撃弾を受けた直後。損傷は軽微だった。

往復の航程でアメリカ軍機の爆撃により第一砲塔と前甲板に4発の爆弾が命中したが、戦闘継続に支障は無かった。砲塔を直撃した爆弾は、装甲があまりにも厚かったため、天蓋の塗装を直径1メートルほどに渡って剥がしただけで跳ね返され、空中で炸裂して付近の25ミリ機関砲の操作員に死傷者が出た。第二砲塔長であった奥田特務少佐の手記によると、爆弾が命中した衝撃で第二砲塔員の大半が脳震盪を起こし倒れたと云う。また前甲板の爆弾は錨鎖庫に水面下の破孔を生じ、前部に3000トンの浸水、後部に傾斜復元のため2000トンを注水した

10月28日、大和はブルネイに到着した。11月8日、多号作戦において連合軍空軍の注意をひきつけるためブルネイを出撃、11日に帰港したが特に戦闘は起きなかった。11月16日、B-24爆撃機15機の襲撃に対し主砲で応戦、3機を撃墜する。同日夕刻、戦艦3隻(大和、長門、金剛)、第十戦隊(矢矧、浦風、雪風、磯風、浜風)とともに内地に帰還したが、台湾沖で戦艦金剛と駆逐艦浦風がアメリカ潜水艦の雷撃により撃沈されることとなった。11月23日、呉に到着。宇垣中将は退艦、森下信衛5代目艦長にかわって有賀幸作大佐が6代目艦長となった(森下は第二艦隊参謀長として引き続き大和に乗艦)

大和の姉妹艦武蔵の沈没は大和型戦艦を不沈艦と信じていた多くの乗組員に衝撃を与え、いずれ大和も同じ運命をたどるのではと覚悟する者もいた。宇垣中将は戦藻録に「嗚呼、我半身を失へり!誠に申訳無き次第とす。さり乍ら其の斃れたるや大和の身代わりとなれるものなり。今日は武蔵の悲運あるも明日は大和の番なり」と記した

レイテ沖海戦で日本の連合艦隊は事実上壊滅した。大和以下残存艦艇は燃料不足のため満足な訓練もできず、内地待機を続けている

昭和20年(1945年)3月19日に柱島沖の大和が空襲を受ける様子

1945年(昭和20年)3月19日、呉軍港に敵艦載機が襲来、大和は事前に安芸灘に出たが攻撃を受け、直撃弾はなかったものの、測距儀が故障、陸あげ修理を要した。その後、すでに安全な場所でなくなった呉軍港から徳山沖に疎開した

同年3月28日、「第二艦隊を東シナ海に遊弋させ、大和を目標として北上して来たアメリカ軍機動部隊を基地航空隊が叩く作戦」(三上作夫連合艦隊作戦参謀)に向け、大和(艦長:有賀幸作大佐、副長:能村次郎大佐、砲術長:黒田吉郎中佐)を旗艦とする第二艦隊(司令長官:伊藤整一中将、参謀長:森下信衛少将)は佐世保への回航を命じられ呉軍港を出港したが、米機動部隊接近の報を受けて空襲が予期されたので回航を中止し、翌日未明、徳山沖で待機となった

3月30日にアメリカ軍機によって呉軍港と広島湾が1,034個の機雷で埋め尽くされ、機雷除去に時間がかかるために呉軍港に帰還するのが困難な状態に陥った。関門海峡は27日にアメリカ軍によって機雷封鎖され通行不能だった

 

上記の記述で当時 戦艦大和が修理もままならない状態であったことがわかりました。

次回またさらにや戦艦大和について時系列な記述をアップする予定です。

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