戦艦大和5

またまたさらに戦艦大和について調べました。ウイキペディアには以下の記述があります。

 

坊ノ岬沖海戦

4月7日6時30分ごろ、大和は対潜哨戒のため零式水上偵察機を発進させた。この機は鹿児島県指宿基地に帰投した

連合艦隊の参謀が大和の海上特攻作戦を第五航空艦隊へ報告に行った際、第五航空艦隊は既に菊水作戦中で、多くの部隊は特攻作戦に全力を投入していたため、参謀は「第五航空艦隊に迷惑はかけない」と伝えている。第五航空艦隊司令長官の宇垣纏中将はこの海上特攻作戦に反対ではあったが、「連携ある作戦で友軍の援護をすることは当然」として、配下の戦闘機隊に対して掩護命令を出した。しかし、宇垣の意向に対して、前線の部隊の対応は足並みが揃っておらず、第五航空艦隊は夜間戦闘機隊芙蓉部隊の指揮官美濃部正少佐に大和掩護要請を打診したが、芙蓉部隊には、重武装、重装甲型の零戦52型丙型を配備されていたにも拘らず、芙蓉部隊の戦闘機搭乗員は敵戦闘機に対する空戦技術を殆ど持たなかったこともあって、美濃部は芙蓉部隊に制空戦闘はできないなどとして大和の援護要請を断っている

阿部三郎(海軍中尉、五航艦第二〇三空)は、自らの所属していた戦闘三一一飛行隊を含めて、幾つかの部隊に第二艦隊掩護命令が出たことを記憶している。だが出撃準備中の4月7日午後3時、第五航空艦隊から発進中止命令が下った。阿部の戦後の調査によれば、戦闘三〇三飛行隊から早朝に4機が出撃したが、視界不良のため大和を発見できず帰投した。戦闘三一二飛行隊(笠之原基地)からは8機(伊藤康夫中尉)発進して第二艦隊と大和上空を護衛し、三五二空(大村基地)からは零戦隊・甲分隊が午前10時まで第二艦隊上空を護衛していた

九州近海までは、能村副長はF6Fヘルキャット3機を目撃したのみで、日本軍機はいなかったと回想する。一方、日本軍機の編隊を見たという証言もあり、戦闘詳報では5機から10機の零式艦上戦闘機(零戦)が、午前10時まで上空警戒をしていたと報告している。その数機単位の護衛機も4月7日昼前には帰還してしまい、第五航空艦隊が軍組織として上空掩護を行ったことは確実だが、混乱と準備不足のために戦闘機部隊を手配しきれず、午前中のみの、少数機による中途半端な掩護で終わってしまった

このように同じ海軍の大和への航空支援は乏しいものとなったが、第二艦隊の出撃を知らされた陸軍航空隊第6航空軍司令官菅原道大中将は、陸海軍の連携を重視し「(大和特攻の際に)南九州の第100飛行団が四式戦闘機疾風48機を投入して、奄美大島付近の制空権を一時的に掌握、協力する」と大和への航空支援を快諾して、第100飛行団を主力とする陸軍航空隊の戦闘機41機を出撃させて、12:00から14:00にかけて制空戦闘をおこない10機が未帰還となった

零戦が帰投すると、入れ替わるようにアメリカ軍のマーチン飛行艇などの偵察機が艦隊に張り付くようになる。スレッドフィンが零戦の護衛を報告し、ミッチャーが零戦の航続距離を考慮した結果ともいわれる。アメリカ軍の記録によれば、8時15分に3機のF6Fヘルキャット索敵隊が大和を発見した。8時23分、別のヘルキャット索敵隊も大和を視認した。このヘルキャット隊は周辺の索敵隊を集め、同時にマーチン飛行艇も監視に加わった。大和は主砲以外の対空兵器で砲撃したが、アメリカ偵察機を追い払うことはできなかった

左弦に至近弾の水柱、大和は艦後部から白煙をあげている。

4月7日12時34分、大和は鹿児島県坊ノ岬沖90海里(1海里は1,852m)の地点でアメリカ海軍艦上機を50キロ遠方に認め、射撃を開始した。8分後、空母ベニントンの第82爆撃機中隊(11機)のうちSB2C ヘルダイバー急降下爆撃機4機が艦尾から急降下する。中型爆弾500kg爆弾8発が投下され、アメリカ軍は右舷機銃群、艦橋前方、後部マストへの直撃を主張した。大和は後部指揮所、13号電探、後部副砲の破壊を記録している。後年の海底調査ではその形跡は見られないが、実際には内部が破壊され、砲員生存者は数名だった。前部艦橋も攻撃され、死傷者が出た。また、一発が大和の主砲に当たり、装甲の厚さから跳ね返され、他所で炸裂したという説もある。同時に、後部射撃指揮所(後部艦橋)が破壊された。さらに中甲板で火災が発生、防御指揮所の能村副長は副砲弾庫温度上昇を確認したが、すぐに「油布が燃えた程度」と鎮火の報告が入ったという。建造当初から弱点として問題視された副砲周辺部の命中弾による火災は、沈没時まで消火されずに燃え続けた。実際には攻撃が激しく消火どころではなかったようで、一度小康状態になったものが、その後延焼している。前部中甲板でも火災が発生したとする研究者もいる。清水副砲長は沖縄まで行けるかもしれないと希望を抱いた

アメリカ軍は戦闘機、爆撃機、雷撃機が大和に対し同時攻撃を行った。複数方向から多数の魚雷が発射される上に、戦闘機と爆撃機に悩まされながらの対処だったため、巨大な大和が完全に回避する事は困難だった。ベニントン隊に続きホーネットの第17爆撃機中隊(ロバート・ウォード中佐)が大和を攻撃した。艦首、前部艦橋、煙突後方への直撃弾を主張し、写真も残っている。12時40分、ホーネット (CV-12) の第17雷撃機中隊8機が大和を雷撃し、魚雷4本命中を主張した。「軍艦大和戦闘詳報」では12時45分、左舷前部に1本命中である。戦後の米軍対日技術調査団に対し、森下参謀長、能村副長、清水副砲術長は爆弾4発、宮本砲術参謀は爆弾3発の命中と証言。魚雷については、宮本砲術参謀は3本、能村副長は4本、森下参謀長は2本、清水福砲術長は3本(全員左舷)と証言した。これを受けて、アメリカ海軍情報部は艦中央部左舷に魚雷2本命中と推定、アメリカ軍攻撃隊は魚雷命中8本、爆弾命中5発と主張し「風評通りに極めてタフなフネだった」と述べている。大和では主要防御区画内への浸水で左舷外側機械室が浸水を起こし、第八罐室が運転不能となっていた。左舷に5度傾斜するも、これは右舷への注水で回復した。

13時2分、第二波攻撃が始まった。アメリカ軍攻撃隊94機中、大和に59機が向かった。第83戦闘爆撃機中隊・雷撃機中隊が攻撃を開始。雷撃隊搭乗員は、大和が主砲を発射したと証言している。射撃指揮所勤務兵も、砲術長が艦長の許可を得ずに発砲したと証言するが、発砲しなかったという反論もある。いずれにせよアメリカ軍機の阻止には至らず、エセックスの攻撃隊が大和の艦尾から急降下し、爆弾命中によりマストを倒した。さらに直撃弾と火災により、大和からアメリカ軍機を確認することが困難となった。アメリカ軍機は攻勢を強め、エセックスの雷撃隊(ホワイト少佐)が大和の左右から同時雷撃を行い、9本の魚雷命中を主張した。バターンの雷撃隊(ハロルド・マッザ少佐)9機は全発射魚雷命中、もしくは4本命中確実を主張した。バンカーヒルの雷撃隊(チャールス・スワッソン少佐)は13本を発射し、9本命中を主張した。キャボットの雷撃隊(ジャック・アンダーソン大尉)は、大和の右舷に照準を定めたが進行方向を間違えていたので、実際には左舷を攻撃した。魚雷4本の命中を主張し、これで第一波、第二波攻撃隊が大和に命中させた魚雷は29本となった。これは雷撃隊が同時攻撃をかけたため、戦果を誤認したものと考えられる

「決戦海面を真南とす」旗旒信号を掲げ、攻撃機92機による爆弾63発、航空魚雷52本の集中攻撃に耐え、なお沖縄への意志を示す大和

大和の防空指揮所にいた塚本高夫艦長伝令、渡辺志郎見張長はアメリカ軍が見た事のない激しい波状攻撃を行ったと証言している。宮本砲術参謀は右舷に魚雷2本命中したとする。大和の速力は18ノットに落ち、左舷に15度傾いた。左舷側区画は大量に浸水し、右舷への注水でかろうじて傾斜は回復したが、もはや限界に達しようとしていた。左舷高角砲発令所(左舷副砲塔跡)が全滅し、甲板の対空火器が減殺された

高速で転舵しつつ攻撃を回避する大和。右方は雪風 。上空には攻撃の機を伺うカーチスSB2Cヘルダイバーの姿がある。画面にも薄く雲が見えているが、この日は全天に雲が低く垂れ込め、対空射撃は困難をきわめた。アメリカ軍機は雲の切れ間より襲いかかり、すぐにまた雲間に退避した。大和はこの特攻出撃でヘルダイバーの急降下爆撃により、多数の1000ポンド爆弾の命中を受けている。

13時25分、通信施設が破壊された大和は初霜に通信代行を発令した

被弾して左舷に傾きながら航行する大和。(写真右)。この後、空母ヨークタウン艦載機による魚雷攻撃を受け、速力は10〜15ノットに落ちた。随動して大和を守るのは先航する冬月(写真奥の航跡)と雪風(写真左)

13時30分、イントレピッド、ヨークタウン、ラングレーの攻撃隊105機が大和の上空に到着した。13時42分、ホーネット、イントレピッドの第10戦闘爆撃機中隊4機は、1000ポンド爆弾1発命中・2発至近弾、第10急降下爆撃機中隊14機は、雷撃機隊12機と共同して右舷に魚雷2本、左舷に魚雷3本、爆弾27発命中を主張した。この頃、上空の視界が良くなったという

大和は複数の直撃弾によって艦首側が下がり速度も落ちている。護衛の駆逐艦冬月が10cm対空砲を発射している

大和は多数の爆弾の直撃を受け、艦内では火災が発生した。大和の艦上では、爆弾の直撃やアメリカ軍戦闘機の機銃掃射、ロケット弾攻撃により、対空兵器が破壊されて死傷者が続出する。水面下では、アメリカ軍の高性能爆薬を搭載した魚雷が左舷に多数命中した結果、復元性の喪失と操艦不能を起こした。「いったい何本の魚雷が命中してるかわからなかった」という証言があるほどである。後部注排水制御室の破壊により注排水が困難となって状況は悪化した。船体の傾斜が5度になると主砲、10度で副砲、15度で高角砲が射撃不能となった。また13時30分に副舵が故障し、一時的に舵を切った状態で固定され、直進ないし左旋回のみしか出来なくなった。このことに関して、傾斜を食い止めるために意図的に左旋回ばかりしていたと錯覚する生存者もいる。また、大和が左舷に傾斜したため右旋回が出来なくなったとする見方もある。船舶は旋回すると、旋回方向と反対側に傾斜する性質があり、左傾斜した大和が右旋回すると左に大傾斜して転覆しかねなかったという。これらのことにより、アメリカ軍は容易に大和に魚雷を命中させられるようになったが、15分後に副舵は中央に固定された。左舷にばかり魚雷が命中していることを懸念した森下参謀長が右舷に魚雷をあてることを提案したが、もはやその余裕もなく、実行されずに終わった

また、傾斜復旧のために右舷の外側機械室と3つのボイラー室に注水命令が出されているが機械室・ボイラー室は、それぞれの床下にある冷却用の配管を人力で壊して浸水させる必要があり、生存者もいないため実際に操作されたかどうかは不明である。しかしながら14時過ぎには艦の傾斜はおおむね復旧されていたのも事実である。

14時、注排水指揮所との連絡が途絶し、舵操舵室が浸水で全滅した。大和の有賀艦長は最期を悟り、艦を北に向けようとしたが、大和は既に操艦不能状態だった。大和は艦橋に「我レ舵故障」の旗流を揚げた。14時15分、警報ブザーが鳴り、全弾薬庫に温度上昇を示す赤ランプがついたが、もはや対処する人員も時間もなかった。護衛駆逐艦からは航行する大和の右舷艦腹が海面上に露出し、左舷甲板が海面に洗われるのが見えた

大和への最後のとどめになった攻撃は、空母ヨークタウンの第9雷撃機中隊TBF アベンジャー6機による右舷後部への魚雷攻撃であった。14時10分、トム・ステットソン大尉は左舷に傾いたため露出した大和の艦底を狙うべく、大和の右舷から接近した。雷撃機後部搭乗員は、艦底に魚雷を直撃させるために機上で魚雷深度を3mから6mに変更した。4機が魚雷を投下、右舷に魚雷2-4本命中を主張する。やや遅れて攻撃した2機は右舷に1本、左舷後部に1本の命中を主張した。後部への魚雷は、空母ラングレー隊の可能性もある

この魚雷の命中は、大和の乗員にも印象的に記憶されている。艦橋でも「今の魚雷は見えなかった…」という士官の報告がある。三笠逸男(一番副砲砲員長)は、「4機編隊が攻めてきて魚雷が当たった。艦がガーンと傾きはじめた」と証言している。黒田吉郎砲術長は「右舷前部と左舷中央から大水柱があがり、艦橋最上部まで伝わってきた。右舷に命中したに違いない」と証言した。坂本一郎測的手は「最後の魚雷が致命傷となって、船体がグーンと沈んだ」と述べた。呉海事博物館の映像では、5本の魚雷が投下されたが回避することが出来ないので有賀艦長は何も言わずに命中するまで魚雷を見つめていたという生存者の証言が上映されている。

このように14時17分まで、大和はアメリカ軍の航空隊386機(戦闘機180機・爆撃機75機・雷撃機131機)もしくは367機による波状攻撃を受けた。戦闘機も全機爆弾とロケット弾を装備し、機銃掃射も加わって、大和の対空火力を破壊した。ただし艦隊の上空に到達して攻撃に参加したのは309機。その中から大和を直接攻撃したのは117機(急降下爆撃機37、戦闘機15機、戦闘爆撃機5機、雷撃機60機)である

『軍艦大和戦闘詳報』による大和の主な被害状況は以下のとおり。ただし、「大和被害経過資料不足ニテ詳細不明」との注がある。また大和を護衛していた第二水雷戦隊が提出した戦闘詳報の被害図や魚雷命中の順番とも一致しない。例えば第二水雷戦隊は右舷に命中した魚雷は4番目に命中と記録している。

* 12時41分 後部に中型爆弾2発命中。電探室および主計課壊滅
* 12時45分 左舷前部に魚雷1本命中
* 13時37分 左舷中央部に魚雷3本命中、副舵が取舵のまま故障。
* 13時44分 左舷中部に魚雷2本命中
* 13時45分 副舵を中央に固定。応急舵で操舵
* 14時00分 艦中央部に中型爆弾3発命中
* 14時07分 右舷中央部に魚雷1本命中
* 14時12分 左舷中部、後部に魚雷各1本命中。機械右舷機のみで12ノット。傾斜左舷へ6度。
* 14時17分 左舷中部に魚雷1本命中、傾斜急激に増す
* 14時20分 傾斜左舷へ20度、傾斜復旧見込みなし。総員上甲板(総員退去用意)を発令。
* 14時23分 大和、沈没。(左舷側へ大傾斜、転覆ののち、前後主砲の弾火薬庫の誘爆による大爆発を起こして爆沈)。死者2740名、生存者269名

最後の複数の魚雷が大和の右舷に命中してからは20度、30度、50度と急激に傾斜が増した。能村副長は防御指揮所から第二艦橋へ上がると有賀艦長に総員最上甲板を進言し、森下参謀長も同意見を述べた。伊藤長官は森下参謀長と握手すると、全員の挙手に答えながら、第一艦橋下の長官休憩室に去った。森下参謀長は第二艦隊幕僚達に対し、駆逐艦に移乗したのち沖縄へ先行突入する事を命じ、自身は大和を操艦するため艦橋に残った。有賀艦長は号令機で「総員最上甲板」を告げたが、すでに大和は左舷に大傾斜して赤い艦腹があらわになっていた。このため、脱出が間に合わず艦内に閉じ込められて戦死した者が多数いた。有賀艦長は羅針儀をつかんだまま海中に没した。第一艦橋では、茂木史朗航海長と花田中尉が羅針儀に身体を固定し、森下参謀長が若手将兵を脱出させていた。昭和天皇の写真(御真影)は主砲発令所にあって第九分隊長が責任を負っていたので、同分隊長服部海軍大尉が御真影を私室に捧持して鍵をかけた。一方、艦橋測的所の伝令だった北川氏の証言によれば、腰まで海水に浸かり脱出不能となった主砲発令所で中村中尉が御真影を腹に巻いているという報告があったのちに連絡が途絶えたとされる。

 

まだまだ戦艦大和についての記述はあります。次回もさらに戦艦大和について調べてみます。

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