戦艦大和6

またさらに戦艦大和について調べました。ウイキペディアには以下の記述があります。

沈没

1945年4月7日14時20分、大和はゆっくりと横転していった。艦橋頂上の射撃指揮所配置の村田元輝大尉や小林健(修正手)は、指揮所を出ると、すぐ目の前が海面だったと証言している。右舷外側のスクリューは最後まで動いていた。左舷の高角砲も半場海水に浸かり、砲身を上下させる隙間から乗員が外に出た。艦橋周囲の手すりには乗員が鈴なりにぶら下がっていた。14時23分、上空のアメリカ軍攻撃隊指揮官達は大和の完全な転覆を確認する。「お椀をひっくりかえすように横転した」という目撃談がある

転覆した際、搭載する弾薬が誘爆し、大和は船体を三つに折り海中に没した。なおこれが船体を確認できる最後の媒体である。

大和は直後に大爆発を起こし、船体が3つに分断されて海底に沈んだ。

大和の最期。大和が沈没しても、なお沖縄突入の意気を失わない駆逐艦の艦長もいたが、伊藤長官が大和沈没直前に作戦の中止、及び残存艦による沈没艦の兵員救助活動後、佐世保に帰投せよとの命令を出していたため、沖縄に到達する艦はなかった。

沈没へ。進水から永眠まで4年と8ヶ月、計1704日間の艦暦であった。

大和の沈没時刻について「軍艦大和戦闘詳報」と「第17駆逐隊戦時日誌」では14時23分、初霜の電文を元にした「第二水雷戦隊戦闘詳報」は14時17分と記録している。爆発によって吹き飛ばされた破片は海面の生存者の上に降り注ぎ、それによって命を落とした生存者も少なくなかった

所在先任指揮官吉田正義大佐(冬月、第四一駆逐隊)は、沖縄突入より生存者の救助を命じた。軽巡矢矧から脱出後、17時20分に初霜に救助された古村啓蔵少将は一時作戦続行を図って暗号を組んでいたものの、結局は生存者を救助のうえ帰途についた

14時50分、冬月と雪風が駆けつけ、甲板から垂らしたロープや縄梯子、短艇(内火艇)を使って大和の生存者の救助を開始した。冬月は艦橋から望遠鏡で海上を探索し、2隻の内火艇に指示を出して救助を進めた。森下参謀長、石田第二艦隊副官は冬月の内火艇に発見され救助された

頭頂部に裂傷を負った能村副長は、森下参謀長から少し離れた海上を漂っていた。副長補佐の国本中尉が「副長ここにあり」と周囲の生存者を呼び集め、負傷者を中心に輪になって救助を待つと、雪風がボート(内火艇)を下して能村副長ら負傷者の救助を始めた。元気な者は縄梯子で甲板に上り、国本中尉は雪風の負傷兵と交代して配置についた。小林修正手も彼を救助した雪風が2隻の内火艇を降ろして、重傷を負って殆ど口と鼻だけ水面に出して浮いている兵や、体力を完全に使い果たし自力では動けない兵などを救助していたのを目撃している。能村副長は漂流中に意識を失い、雪風の水兵が一所懸命気付の張り手を加えても覚醒しなかった。大佐の襟章も重油で汚れていて本人確認が難しく、気絶したまま雪風軍医長の縫合を受けて生還した

冬月、雪風による大和の救助作業は16時半頃に切り上げられた。雪風艦上では救助切り上げ、ボートの回収を命令した駆逐艦長に対して大和の士官が「まだ生存者が残っている」と救助の継続を訴えたが、日没が近くなり潜水艦の行動が活発化する恐れがあったこと、損傷艦を救援する作業が控えていたことから、そこで打ち切られた。冬月は霞、矢矧の救助を行った後、涼月の探索のため19時2分に先行して海域を離れ、雪風は矢矧の救助後、23時頃まで磯風の救援に当たった。冬月は潜水艦の追跡を受け、同じく雪風は潜水艦から雷撃されたが、両艦とも被害はなく、4月8日午前、救助した大和の生存者と共に佐世保に入港した

大和では伊藤整一第二艦隊司令長官(戦死後大将)、有賀艦長(同中将)以下2,740名が戦死、生存者269名または276名、第二水雷戦隊戦闘詳報によれば、準士官以上23名・下士官兵246名、第二艦隊司令部4名・下士官兵3名であった

うまく沖縄本島に上陸できれば乗組員の給料や物資買い入れ金なども必要とされるため、現金51万805円3銭が用意されていた(2006年の価値に換算して9億3000万円ほど)。大和を含めた各艦の用意金額は不明だが、少なくとも浜風に約14万円が用意され、同艦轟沈により亡失したことが記録されている

4月9日、朝日新聞は一面で「沖縄周辺の敵中へ突撃/戦艦始め空水全軍特攻隊」と報道したが、大和の名前も詳細も明らかにされることはなかった

大和沈没の報は親任式中の鈴木貫太郎首相ら内閣一同に伝えられ、敗戦が現実のものとして認識されたという。同様の感想は、大和の沈没を目撃したアメリカ軍搭乗員も抱いている。終戦後の1945年(昭和20年)8月31日、戦艦4隻(山城、武蔵、扶桑、大和)、空母4隻(翔鶴、信濃、瑞鶴、大鳳)は帝国軍艦籍から除籍された

4月30日、昭和天皇は米内海軍大臣に「天号作戦ニ於ケル大和以下ノ使用法不適当ナルヤ否ヤ」と尋ねた。海軍は「当時の燃料事情及練度 作戦準備等よりして、突入作戦は過早にして 航空作戦とも吻合せしむる点に於て 計画準備周到を欠き 非常に窮屈なる計画に堕したる嫌あり 作戦指導は適切なりとは称し難かるべし」との結論を出した

12月9日、GHQは日本放送協会ラジオ第1放送・第2放送を通じて『眞相はかうだ』の放送を開始、この中で大和の沈没を『世界最大のわが戦艦大和と武蔵の最後についてお知らせ下さい』という題で放送した。アメリカ軍の認識であるため、大和は排水量4万5000トンの戦艦として紹介されている

沈没要因

大和が爆発した際の火柱やキノコ雲は、鹿児島からでも確認できたという。また、徳之島から見えたという伝承がある

爆発は船体の分断箇所と脱落した主砲塔の損傷の程度より、2番主砲塔の火薬庫が誘爆したためとされる。アメリカ軍と森下参謀長、清水副砲術長は後部副砲の火災が三番主砲弾薬庫の誘爆に繋がったと推論したが、転覆直後に爆発している点などをふまえ、大和転覆による爆発とする説のほうが有力である。能村副長は「主砲弾の自爆」という表現を使っている。戦後の海底調査で、艦尾から70mの艦底(機関部)にも30mほどの大きな損傷穴があることが判明している。これはボイラーが蒸気爆発を起こした可能性が高いとされるが、三番主砲弾薬庫の爆発によるものであるとする報告もある

同型艦の武蔵が魚雷20本以上・爆弾20発近くを被弾しながら9時間程耐えたのに比べ、大和は2時間近くの戦闘で沈没した。いささか早く沈んだ印象があるが、これは被弾魚雷の内1本(日本側記録では7本目)を除いては全て左舷に集中した、低い雲に視界を遮られて大和側から敵機の視認が困難を極めた、武蔵に比べアメリカ軍の攻撃に間断がなく、さらにレイテ沖海戦の時よりも攻撃目標艦も限られていたなど、日本側にとって悪条件が重なっていた。また有賀艦長は1944年(昭和19年)12月に着任、茂木航海長(前任、戦艦榛名)は出撃の半月前の着任である。新任航海長や、小型艦の艦長や司令官として経験を積んだ有賀艦長が巨艦・大和の操艦に慣れていなかった事が多数の被弾に繋がったという指摘もある。1945年(昭和20年)以降の大和は燃料不足のため、満足な訓練もできなかった。有賀艦長も海兵同期の古村第二水雷戦隊司令官に、燃料不足のため主砲訓練まで制限しなければならない窮状を訴えている。これに対し、大和操艦の名手と多くの乗組員が賞賛する森下参謀長は「大和のような巨艦では敏速な回避は難しく、多数の航空機を完全回避することは最も苦手」と語っている。航海士の山森も、沖縄特攻時のアメリカ軍攻撃の前では、森下の技量でも同じだったとした。その一方で、森下参謀長ならば沖縄まで行けたかもしれないと述べる意見もある

アメリカ軍航空隊は武蔵一隻を撃沈するのに5時間以上もかかり手間取った点を重視し、大和型戦艦の攻略法を考えていたという。その方法とは、片舷の対空装備をロケット弾や急降下爆撃、機銃掃射でなぎ払った後、その側に魚雷を集中させて横転させようというものだった。だが、意図的に左舷を狙ったというアメリカ軍記録や証言は現在のところ発見されていない。

さらに、アメリカ軍艦載機が提出した戦果報告と日本側の戦闘詳報による被弾数には大きな食い違いがある。艦の被害報告を受けていた能村副長(艦橋司令塔・防御指揮所)は魚雷命中12本と回想。中尾(中尉、高射長付。艦橋最上部・防空指揮所)は魚雷14本。戦闘詳報では、魚雷10本・爆弾7発。アメリカ軍戦略調査団は、日本側資料を参考に魚雷10本、爆弾5発。アメリカ軍飛行隊の戦闘報告では、367機出撃中最低117機(戦闘機ヘルキャット15機、戦闘機コルセア5機、急降下爆撃機ヘルダイバー 37機、雷撃機アベンジャー60機)が大和を攻撃し、魚雷30-35本、爆弾38発が命中したと主張。第58任務部隊は魚雷13-14本確実、爆弾5発確実と結論づけている。アメリカ軍の戦闘記録を分析した原勝洋は、日本側の戦闘詳報だけでなく、アメリカ軍記録との照合による通説の書き換えが必要だと述べた。アメリカ軍の被害は6機が墜落、5機が帰還後に破棄、47機が被弾した

 

1945年4月7日 戦艦大和はアメリカ軍の攻撃により海の底へ沈むこととなりました。その4か月後8月に日本は終戦を迎える事となります。大和を失ったことは当時の日本国海軍に大きなショックを与えたことは間違いないと思います。多くの命が奪われた戦争は行われるべくではない行為です。しかし、人類は有史以来 現在においても戦争を止めることができない存在です。悲しい事実です。

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