戦艦大和

1941年12月16日 戦艦大和が竣工されました。ウイキペディアには以下の記述があります。

大和やまとは、大日本帝国海軍が建造した大和型戦艦の1番艦。2番艦の武蔵とともに、史上最大にして唯一46センチ砲を搭載した超弩級戦艦である。建造当初は、世界最大最強の戦艦だった。呉海軍工廠で建造。

昭和20年(1945年)4月7日、天一号作戦(坊ノ岬沖海戦)で沈没。

概要

大和型戦艦の1番艦である(二番艦は武蔵)。大和の艦名は奈良県の旧国名の大和国に由来する。艦名は、明治・大正時代の海防艦/特務艦大和に続いて二代目。

大和は戦艦として史上最大の排水量に史上最大の46cm主砲3基9門を備え、防御面でも、指揮系統の集中する重要区画(バイタルパート)では対46cm砲防御を施した戦艦であった。設計はもちろん、ブロック工法の採用など施工においても当時の日本の最高の技術が駆使された。しかし、その存在、特に46cm主砲の搭載が最高軍事機密であったので、建設時から秘匿に力が注がれ、また完成が数日差ながらすでに戦時中になっていたこと、さらに敗戦前後に設計図含め多くの記録が焼却処分されたためにその姿をとらえた現存写真は非常に少なくなっている。

太平洋戦争(大東亜戦争)開戦直後の1941年(昭和16年)12月16日に就役。1942年(昭和17年)2月12日に連合艦隊旗艦となった(司令長官山本五十六大将)。6月上旬のミッドウェー作戦が初陣となった。1943年(昭和18年)2月、司令部設備に改良が施された同型艦の武蔵がトラック島に進出し、同艦に連合艦隊旗艦任務を移譲。同年末、大和は輸送作戦中にアメリカ潜水艦の雷撃で小破した。 修理・改装後、1944年(昭和19年)6月の渾作戦、マリアナ沖海戦に参加した。同年10月中旬以降の捷一号作戦で、アメリカ軍の護衛空母部隊(タフィー3)に対し46cm主砲砲撃を実施した(レイテ沖海戦)。1945年(昭和20年)4月7日、天一号作戦において第二艦隊(第一航空戦隊)旗艦として麾下の第二水雷戦隊と共に沖縄方面へ出撃したがアメリカ軍の機動部隊の猛攻撃を受け、坊ノ岬沖で撃沈された。

沿革・艦歴

建造

ロンドン海軍軍縮条約の失効から1年後の1937年(昭和12年)、失効後にアメリカ・イギリス海軍が建造するであろう新型戦艦に対抗しうる艦船を帝国海軍でも建造することが急務とみた軍令部は、艦政本部に対し主砲として18インチ砲(46センチ砲)を装備した超大型戦艦の建造要求を出した。この要求を満たすべく設計されたのが「A140-F6」、すなわち後の大和型戦艦である。「A140-F6」型は2隻の建造が計画され、それぞれ「第一号艦」「第二号艦」と仮称された。しかし当時すでに航空主兵論が提唱され始めていたこともあり、山本五十六ら航空主兵論の将校からはそうした大型艦の建造が批判されていた

1937年(昭和12年)8月21日、米内光政海軍大臣から第一号艦製造訓令「官房機密第3301号」が出ると、5年後の1942年(昭和17年)6月15日[15]を完成期日としてここに第一号艦の建造が始動した。同年11月4日には広島県呉市の呉海軍工廠の造船船渠で起工。長門型戦艦1番艦長門や天城型巡洋戦艦2番艦赤城(空母)を建造した乾ドックは大和建造のために1メートル掘り下げて、長さ314メートル、幅45メートル、深さ11メートルに拡張された。イギリスやアメリカにこの艦を超越する戦艦を作られないように建造は秘密裏に進められ、設計者たちに手交された辞令すらその場で回収される程だった。また艦の性能値も意図的に小さく登録された。

機密保持は厳重を極めた。造船所を見下ろせる所には板塀が設けられ、ドックには艦の長さがわからないよう半分に屋根を架け、棕櫚(しゅろ)の葉を編み込んだ大量の筵が全面に張り巡らされた。全国から膨大な量の棕櫚を極秘に買い占めたために市場での著しい欠乏と価格の高騰を招き、大騒ぎになったという逸話が残っている。建造に携わる者には厳しい身上調査が行われた上、自分の担当以外の部署についての情報は必要最小限しか知ることができないようになっていた。造船所自体が厳しい機密保持のために軍の管制下に置かれた。建造ドックを見下ろす山でも憲兵が警備にあたっていた。しかし海軍関係者の間で巨大戦艦建造の事実そのものは公然の秘密だった。海軍兵学校の生徒を乗せた練習機が大和の上空を飛び、教官が生徒達に披露したこともあったという。大和型戦艦建造の際の機密保持については、多くの建艦関係者が行き過ぎがあったことを指摘している

1940年(昭和15年)3月3日、海軍は③計画1号艦の艦名候補として『大和』と『信濃』を挙げ、3月6日に昭和天皇は『大和』を選択した。軍艦の命名は、海軍大臣が複数の候補を選定して天皇の治定を仰ぐことが定められていた。天皇の決定をうけて吉田善吾海軍大臣は「第一号艦」を大和(やまと)と命名した。なお同日附で③計画の各艦艦名、武蔵(2号艦)、翔鶴(3号艦)、瑞鶴(4号艦)も決定している

同年8月8日進水。ただし進水といっても武蔵(三菱長崎造船所建造)のように陸の船台から文字通り進水させるのではなく、大和の場合は造船ドックに注水してから曳船によって引き出す形で行われた。しかも機密保持からその進水式は公表されることもなく、高官100名と進水作業員1000名が見守るだけで、世界一の戦艦の進水式としては寂しいものだった。昭和天皇が海軍兵学校の卒業式出席という名目で大和進水式に行幸する予定が組まれ、造船関係者は社殿風の進水台を制作する。結局は天皇の義兄にあたる久邇宮朝融王海軍大佐(香淳皇后の兄、当時海防艦八雲艦長)臨席のもとで進水式は行われた。海軍大臣代理として式に臨んだ嶋田繁太郎海軍中将は、それまで仮称「一号艦」と呼ばれていたこの巨艦のことを初めて、ただし臨席者にも聞き取り難いほどの低い声で、大和と呼んだ。造船関係者は葛城型スループ2隻(大和、武蔵)が既に廃艦になっていることから新型戦艦(本艦)の艦名を大和と予測、橿原神宮と千代田城二重橋を描いた有田焼の風鈴を500個制作、関係者のみに配布した。 8月11日、帰京した朝融王は天皇に大和進水式について報告した

大和進水後のドックでは大和型4番艦111号艦の建造がはじまったが、大和の艤装工事に労力を割いたため111号艦の進捗は遅れた。一方の大和は前述のように1942年6月の竣工を目指して艤装工事を続けたが、日本海軍は本艦の完成時期繰り上げを命令

昭和16年(1941年)9月20日、呉工廠で最終艤装中の大和。

1941年(昭和16年)10月18日、土佐沖での試運航で、荒天(風速南西20m)の中で速力27.4ノットを記録。続いて30日の宿毛湾で、全力公試27.46ノットを記録、11月25日には山本五十六連合艦隊司令長官が視察に訪れた。12月7日、周防灘で主砲射撃を実施した。真珠湾攻撃の前日だった。12月8日、南雲機動部隊の収容掩護のため豊後水道を南下する戦艦6隻(長門、陸奥、扶桑、山城、伊勢、日向)、空母鳳翔、第三水雷戦隊以下連合艦隊主力艦隊とすれ違う。 呉帰投後の第一号艦(大和)は12月16日附で竣工した。同日附で第一戦隊に編入された。艦艇類別等級表にも「大和型戦艦」が登録された。大和の1/500模型は昭和天皇と香淳皇后天覧ののち海軍省に下げ渡され、海軍艦政本部の金庫に保管されたという

昭和16年(1941年)10月30日、宿毛湾沖標柱間にて公試中の大和(アメリカ海軍歴史センター所蔵写真のカラー化画像)

大和には当時の最新技術が多数使用されていた。日本海軍の軍艦では最初に造波抵抗を打ち消す球状艦首(バルバス・バウ)を用いて速力向上をはかり(竣工は翔鶴が先)、煙突などにおける蜂の巣構造の装甲、巨大な観測用の測距儀の装備など、進水時には世界最大最新鋭の艦型だった。就役当初レーダーは装備されていなかったが、その後電探が漸次装備されていった。 なお、副砲には条約型重巡の主砲がそのまま転用されたが、これは海軍が海軍休日を破棄して条約型重巡の主砲を15センチ砲から20センチ砲に入れ替えるのを最初から計画していた、という説もある。

連合艦隊旗艦

1942年(昭和17年)2月12日、大和は連合艦隊旗艦となった。参謀達はそれまで旗艦だった長門に比べ格段に向上した本艦の居住性に喜んでいる。 3月30日、距離38100mで46cm主砲射撃訓練を行う。第二艦隊砲術参謀藤田正路は大和の主砲射撃を見て1942年5月11日の日誌に「すでに戦艦は有用なる兵種にあらず、今重んぜられるはただ従来の惰性。偶像崇拝的信仰を得つつある」と残した。5月29日、大和はミッドウェー作戦により山本五十六連合艦隊司令長官が座乗して柱島泊地を出航したが、主隊として後方にいたため大和が直接アメリカ軍と砲火を交えることはなかった[要出典]。6月10日、アメリカ軍の潜水艦に対して二番副砲と高角砲を発砲した。同6月14日柱島に帰投する。

大和が機動部隊と同行しなかったのは、戦前からの艦隊決戦思想と同じく空母は前衛部隊、戦艦は主力部隊という思想の元に兵力配備をしたからであり、艦艇の最高速度との直接的な関係はなかった。実際、主力空母のうち最も低速の空母加賀の速度差は殆ど0、飛鷹型航空母艦は25ノットで大和型戦艦より劣速である。ただ、飛鷹型空母は民間客船を改造した艦で、正規空母ではなく、航空母艦の護衛はより高速な艦が必要だったのは事実である。実際、空母の護衛には戦艦の中では高速戦艦に分類される金剛・比叡・榛名・霧島が用いられることが多かった。日本海軍の主戦力が空母と認識されたのはミッドウェー海戦での敗戦を受けてのことであり、この時点では少なくとも編成上は戦艦が主力の扱いであった。

1942年(昭和17年)8月7日、アメリカ軍がガダルカナル島に来襲してガダルカナル島の戦いが始まった。8月17日、山本長官以下連合艦隊司令部を乗せた大和は、空母大鷹(春日丸)、第7駆逐隊(潮、漣、曙)と共にソロモン方面の支援のため柱島を出航する。8月21日、グリメス島付近を航行し、航海中に第二次ソロモン海戦が勃発した。航空機輸送のため2隻(大鷹、曙)をラバウルに向かわせたのち、3隻(大和、潮、漣)は8月28日にチューク諸島トラック泊地に入港したが、入泊直前に大和はアメリカ潜水艦フライングフィッシュから魚雷4本を撃ち込まれた。2本は自爆、1本を回避している。その後、トラック泊地で待機した。 9月24日、ガダルカナル島への輸送作戦をめぐって陸軍参謀辻政信中佐が大和に来艦、山本連合艦隊長官と会談する。辻は大和の大きさに感嘆した。だが、大和が最前線に投入されることはなかった。ヘンダーソン基地艦砲射撃に参加する案も検討されたが取りやめとなった。 第三次ソロモン海戦では、老艦の金剛型戦艦霧島と比叡が大和と同世代のアメリカの新鋭戦艦であるサウスダコタとワシントンとの砲撃戦により大破、自沈した。この点で、大和型戦艦の投入をためらった連合艦隊の消極性とアメリカの積極性を比較する意見もある

時代が違っていれば、戦艦大和は建造されなかったかもしれない。違った運命を辿ったかもしれない。次回も戦艦大和について調べてみます。

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