錦糸町の伏見稲荷神社様の御参拝を終えてその日の目的地『葛西神社』様へ移動することにしました。JR錦糸町駅で総武各駅で小岩駅まで移動。その後、バスで金町へ移動しました。最初は京成電車で金町へ行こうと考えていました。JR小岩駅で下車して京成小岩に乗り換えればよいと思ていました。しかし、JR小岩駅から京成小岩駅は隣接しておらず歩いて15分以上かかりそうな位置でした。そのため、JR小岩駅からバスで金町へ移動することとなりました。待ち時間はほとんどなくすぐにバスに乗ることができました。高齢な方の利用が多かったです。バスの終点は金町駅ですがその一つ手前の金町3丁目で下車し、目的の『葛西神社』様へ徒歩で向かいました。歩いて20分ほどで到着しました。枝垂れ桜、八重桜が満開で意外な穴場的な神社様でした。葛西神社様について調べてみました。ウイキペディアに由緒が書かれていました。『創建の年代は平安時代末期、元暦2年(1185年)である。当時は上葛西、下葛西合わせた三十三郷(現在の行政区分では、東京都葛飾区、江戸川区の全域、墨田区、江東区、足立区の一部地域にあたる)の総鎮守として葛西三郎清重公の信仰により、香取神宮の分霊を祀ったのが始まりである。この地は葛西御厨の神域にある。その具体的典拠としては「香取文書」の内、鎌倉時代から室町時代にかけての文書に「治承元年丁酉十二月九日 香取造営次第 葛西三郎清重」などをはじめとする記述が散見できる。なお、至徳4年(1387年)の官符によると御厨在住の領家である占部氏に関して「武蔵国猿俣関務事 香取大禰宜長房如先規可令成敗云々」などの記載があり、往還の人馬から関銭なども徴収して神宮の用途に充てていたことが検証できる。中でも、金町・小鮎(小合)・猿俣(猿町)・飯塚の四郷は古来より21年ごとに香取神宮の造営を携わっていたことは、この地との由縁を物語っている。上記の事由から、葛西神社(当時は香取宮と称す)が郷内の守護神として祀られたと言われている。その後、時を経てこの香取宮は明治8年には郷社に定められ、第二次世界大戦後は全国神社の社格が廃止され、宗教法人葛西神社として今日にいたる。』御祭神は経津主神(ふつぬしのかみ)経津主神はフツと断ち放つ剣を象徴した神名とされる。そのような働きにより、自己研鑽、勝負、諸願成就の神として葛西神社において主祭神として往古より永く祀られている。日本武尊(やまとたけるのみこと)日本武尊は景行天皇の皇子。『日本書紀』の倭姫命の叢雲剣(むらくものつるぎ)の段の話や、日本武尊の御魂が空高く舞い上がり、飛び立っていったという古事にちなんで白鳥となって酉との縁が生じ、おとりさまとしての神様の面など、エピソードの多い神様である。葛飾区の郷土資料史には、大向(現在の東金町)のお社にお酉様として日本武尊が祀られていたのを葛西神社に合祀することになった時、近隣の家々で飼われていた鶏が別れを悲しんで一斉に鳴き声を上げたという伝説が記載されている。徳川家康尊(とくがわいえやすのみこと)江戸時代初めに徳川家康が葛西神社へ立ち寄った際、古くから伝わる操り人形芝居の神事を見て大変感激し、奨励のために天正19年(1591年)に玄米十石を扶持として与える御朱印を下賜した。この縁により、葛西神社において徳川家康を祀ることとなる。立身出世や事業成功の象徴として、今なお敬意を集めている。
またこちらの葛西神社様は泣き相撲で有名らしいです。日本全国各地に泣き相撲をする神社はたくさんあります。しかし、そのルールは様々。先に泣いた方が勝ちとなる。逆に先に泣いた方が負けとするところもあるようです。また、先に泣くか笑うかした方が勝ちとなるところもあるようです。氏神様へ子供のお披露目といった意味合いが強いのだと思います。
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