深大寺様

慈恵大師(元三大師)像を安置しているのが、この大師堂です。江戸時代の大師堂は、本堂の西南(新しい手水屋の在る辺り)に東向きに建っていましたが、幕末の火災で類焼したので、本堂西の崖地を削って造成した敷地に位置を移して再建されました。被災直後の慶応3年(1867)に、本堂をさしおいて復興されたことは、厄除元三大師がいかに多くの信者を集めていたかを物語っています。
大きさはもとのお堂と同じくらいで、正面柱間は三間、側面四面、周囲に縁をめぐらしています。

内部はもとは奥一間が仏壇で、その中央に、火災を免れた厨子に慈恵大師像が安置されていました。現在、天蓋風の荘厳があるところが、もとの厨子のあった位置です。昭和49年の改造では、内部を広くするために仏壇を後退させ、厨子の部分は堂の背後に突出する建物として新築しましたが、厨子の正面は江戸時代のものをそのまま用いています。また平成元年までの数回の改造増築で、両側の政所、縁の張り出しが行われました。

不動堂の脇には不動の滝があります。

【深大寺不動の滝 】(東京の名湧水57選)東京都調布市深大寺元町5丁目 明治時代から使用された 不動堂の東にある湧水

深大寺についてウイキペディアには以下の通り書かれています。

深大寺(じんだいじ)は、東京都調布市深大寺元町にある仏教寺院。天台宗別格本山で、山号は浮岳山。

日本三大だるま市の1つ「深大寺だるま市」で知られている。隣接する東京都立神代植物公園は旧寺領であった。

沿革

「深大寺」の名称は、仏法を求めて天竺(インド)へ旅した中国僧の玄奘三蔵を守護したとされる水神「深沙大王」(じんじゃだいおう)に由来していると伝えられている。奈良時代の733年(天平5年)、満功上人が法相宗の寺院として開創したと伝える。東京都では浅草の浅草寺(縁起によれば628年開基)に次ぐ古刹である。

平安時代の859年、天台宗へ改宗する[注釈 1]。江戸時代の1646年と1865年に火災に遭い、堂宇の大半を失っている。現在の本堂は大正時代の再建である。

本尊は本堂に安置されている宝冠阿弥陀如来像。他に、元三大師(がんざんだいし)像を秘仏として祀る

水と深大寺

深大寺は湧水の多い国分寺崖線の崖面に抱かれるように立地し、現在でも境内に複数の湧水源を持つ。湧水を利用した「不動の滝」は「東京の名湧水57選」に選定されている。 門前町の側溝には多量の水が流れ、また周囲には神代植物公園の分園・水生植物園やわさび田を擁する都立農業高校神代農場など、谷戸地形と潤沢な水を利用した施設が広がっている。

崖線から湧き出す豊富な水は古くから田畑を潤し、人びとの素朴な信仰を集めてきた。深大寺によれば、水源地であるがゆえに霊場でもあったこの地が仏教の伝来以降あらためて注目され、“水神「深沙大王」”ゆかりの深大寺建立に至ったのではないかという

「深大寺そば」が付近の名物として発達したのも水の恵みと無関係ではない。蕎麦の栽培、そば打ち、釜茹で、晒しに湧水が利用されただけでなく、水車を利用してのそばの製粉も行われてきた。

国宝

銅造釈迦如来倚像
1909年(明治42年)に元三大師堂の壇の下から発見されたもので、現在は釈迦堂に安置。飛鳥時代後期(白鳳時代)、7世紀の作。像高(坐高)60.6センチメートル、全高83.5センチメートル。関東地方には数少ない古代の仏像であり、童顔の面相、眉から鼻に連なる線、平行して流れる衣文、適度に張りつめた肉付けなどは、時代の特色を表している。下腿部の互い違いに表された衣文、両足間の三角状の衣文、裳裾部分の衣文の処理などはいずれも法隆寺の銅造観音菩薩立像(通称夢違観音)と共通する。像内は頭部内面まで空洞である。像は火災に遭っており、表面の鍍金はほとんど失われている。倚像(いぞう)は、椅子に腰掛けたポーズの像を指す。日本の仏像では倚像は比較的珍しいが、7 – 8世紀の金銅仏には作例を見る
本像は2017年9月15日付けで国宝に指定された

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