祝詞②

祝詞についてさらにウイキペディアには以下の記述がありました。

延喜式祝詞

太古より神祭りに際し、何らかの詞を唱えていたらしいことは、記紀の天岩屋戸のくだりにおいて天児屋命がフトノリトゴトを奏したとあり、『古事記』の国譲りのくだりで、神聖な火を切り出して神饌を調理し、神に奉るときに寿詞(火鑚詞)を奏したとの伝承が残っていることから、うかがえる。古代より現代まで祝詞は作られているが、神道古典として、また現代祝詞の規範になっているのは延長5年(927年)12月奏進の『延喜式』巻八に収められている27編の祝詞である。以下に表にして示す(各祝詞の読み方は、青木[2000]によった)。

延喜式祝詞の古写本

現存する最古の写本は九条家本で、平安時代後期に筆写されたと見られる。本文には後世の改変がなく、傍訓も古体の仮名で書かれている。ついで大永3年(1523年)筆写の卜部兼永本があり、これは万葉仮名の用法において九条家本よりも古い形態を残している。その他に兼永本とは異系統の一本である天文11年(1542年)の卜部兼右本がある。

祝詞の作成年代

『延喜式』所収の祝詞は作成年代に幅があるが、ある程度、推測できるものもある。上の表中、2はこの神社の創祀が神護景雲2年(768年)であり、3、4はこの祭祀の初見が天武天皇4年(675年)であること、5、6はこの神社の祭祀が延暦年間(782-806年)であること、27の神賀詞奏上の初見が霊亀2年(716年)であり、文中の地名が飛鳥京・藤原京の時代を反映していることから、年代を推定することができる。

また、1、7、10は何次かの改変が加えられていると考えられ、1、4、7、14や後述の「中臣寿詞」の文中にある「天つ社・国つ社」の用語は「近江令」施行中の天智天皇10年(671年)から持統天皇3年(689年)の間とする説もある。

祝詞の奏上者

記紀や『古語拾遺』に、忌部氏の祖神・太玉命が幣帛を担当し、中臣氏の祖神・天児屋命(所伝によっては太玉命も)祝詞を奏したとの伝承がある。これを踏まえ、『神祇令』の規定では上の表中、1、7では中臣氏が祝詞を宣り、忌部氏が幣帛を班つことになっており、8、9では斎部氏が、その他は中臣氏が祝詞を読むことになっていた(ただし祭祀の性質上、11や27は除くものと解される)。また10はもっぱら中臣氏が奏したので後世「中臣祓」と呼ばれるようになった。

幕末までの研究史

『延喜式』所載の祝詞の研究は、「六月晦大祓」やそれを改変した「中臣祓」を対象として、鎌倉時代から僧侶や神道家の間で注釈が行われたことに始まり、現在に至るまで多種多様な注釈書が存在する。このうち明治以前のものは『大祓註釈大成』にほぼ網羅されている。

江戸時代の半ば、国学者の活動が活発になると前節のような漢語、仏教語を取り入れた祝詞を批判され、延喜式祝詞が見直されるようになった。全体を網羅した注釈は、荷田春満・荷田在満に始まり、賀茂真淵『祝詞考』で本格化し、鈴木重胤『延喜式祝詞講義』に至って頂点に達した。また、全体に亘るものではないが、本居宣長『出雲国造神寿後釈』『大祓詞後釈』は今日なお参看に耐えうる注釈書である。

その他の古典祝詞

天皇の即位の日や践祚大嘗祭のときに中臣氏が奏上した「中臣寿詞」(天神の寿詞)も重要な文献である。近衛天皇の康治元年(1142年)、大中臣清親が奏上した中臣寿詞は藤原頼長の日記である『台記』別記に所収。他に、その二代前の鳥羽天皇の天仁元年(1108年)、大中臣親定の奏上したものなどがある。また、『延喜式』巻十六、陰陽寮の「儺祭料」条には、十二月晦日の儺祭において陰陽師が唱えた祭文が収められている。

中世以降、祝詞は時代がくだるにつれて、おおむね簡略化、形式化してゆき、神仏習合の流れから漢語、仏教語が取り入れられていった。だが、延喜式の祝詞が官製のものであったのに対し、民間の諸社で実際に奏された祝詞を知ることができる点では貴重なものである。

ある程度まとまった形で残るものとしては、皇大神宮『年中行事詔刀文』や若狭彦神社『詔刀次第』、『住吉大神宮祝詞』『日吉社祝詞口伝書』『諏訪社年内神事次第旧記』がある。断片的に諸書に登載されたものには、『拾芥抄』『執政所抄』に記載のある「宮咩祭文」があげられ、その他『皇太神宮年中行事』『小右記』『柱史抄』『類聚大補任』『吾妻鏡』『朝野群載』『勘仲記』『園太暦』『康富記』『本朝世紀』などに、伊勢大神宮を初め、賀茂、石清水、平野、祇園、北野、春日など諸社の祝詞が収められている。

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