神泉苑へ行きました

若一神社から神泉苑は車で15分程度で到着しました。神泉苑には駐車場がないため周辺をうろうろしました。神泉苑の前を西から東へ通過して、曲がれるところを左折して北上。その一方通行の道の突き当りに道幅が広い道路に出ました。そのさらに前方にはお濠、石垣が見えました。「あれ、これって二条城?」神泉苑は二条城のすぐ南側にあることがその時わかりました。周辺にはコインパーキングが結構あります。すぐに駐車できて神泉苑へ徒歩で移動しました。今回の京都パワースポット巡りの弾丸ツアーでは、神泉苑は無理かもとなっていました。若一神社の参拝を終えてすぐ近くにあったコメダ珈琲で休憩していました。暑かったことまた若一神社で何か所も蚊に刺されたこともあり、さらに喫煙したいということでコメダ珈琲で休憩していました。奥さんから「神泉苑 いけるかも」神泉苑は20時に閉まることが分かり、早速、移動しました。神泉苑には17時頃に到着できました。

神泉苑について ホームページから引用

神泉苑は、延暦13年(794)、桓武天皇により禁苑として造営されました。 平安京(大内裏)の南東隣りに位置し、 南北4町東西2町の規模を有する苑池でした。
苑内には、大池、泉、小川、小山、森林などの 自然を取り込んだ大規模な庭園が造られており、 敷地の北部には乾臨閣を主殿とし、 右閣、左閣、西釣台、東釣台、滝殿、後殿などを伴う宏壮な宮殿が営まれていました。
発掘調査によって、 大池の北岸、泉から池に流れ込む小川(遣水)など庭園の北部を検出しています。
小川河口のすぐ西側の池の北岸には、長さ約4mを測る厚い板材が設置されており、 船着き場の足場板と見られます。
平安時代初頭頃には、苑池での管弦の宴などに用いられた竜頭鷁首の舟などが着き、 貴族たちが南庭へと下り立ったものと想像されます。桓武天皇による延暦19年(800)の行幸以来、歴代天皇は神泉苑で宴遊されました。 平城上皇の頃から、9月9日の重陽節会(菊の節句)や、7月7日の相撲節会など、 節会行事も恒例として行うようになりました。 嵯峨天皇は43回(記録上)、神泉苑へ行幸され、 弘仁3年(812年)には神泉苑で「花宴の節」を初めて行い、 桜の花見と詩宴を催しました。 以後、釣りや、放隼(隼狩り)、詩会、避暑など 宮中行事や宴遊が盛んに行われていました。天長元年(824)、日本中が日照りの際には、 淳和天皇の勅命により 弘法大師空海は神泉苑の池畔にて祈られ 北印度の無熱池の善女龍王を勧請(呼び寄せられ)されました。 日本国中、雨が降り、人民が大いに喜びました。 これ以降神泉苑の池には善女龍王がお住みになるといいます。 空海による雨乞い以後、神泉苑は多くの名僧が祈雨修法を行うようになりました。貞観5年(863)には疫病が大いに流行り、神泉苑にて 六柱の御霊を鎮めるため、朝廷による御霊会が行われた。 経典の演述や、雅楽の演奏、稚児の舞、雑技などが修された。その際は四つの門が解放され、 民衆が出入りし、天皇も御霊会を御覧になられた。
貞観の大地震や、富士山の噴火など、全国的な災いが相次ぐ中で、 貞観11年(869)には、全国の国の数、66本の鉾を立て、 祇園社(八坂神社)から神泉苑に御輿を送り、厄払いをした。
後世には、これが町衆の祭典として、 鉾に車を付け、飾りを施して 京の都を練り歩く、祇園祭へとなる。神泉苑は宗教的な修法が行われる霊場としての性格を強め、 降雨を祈って読経や歌舞が奉納されるようになりました。 白拍子・静御前による祈雨の舞や、小野小町による雨乞いの歌も 現在に伝わっています。江戸時代には、徳川家康が二条城を築城する際、 神泉苑の湧水を 取り込み、城の内濠、外濠を満たすこととなり、 神泉苑は境域の北部を失いました。 名苑の縮小衰退を悲しんだ板倉勝重、片桐且元や、筑紫の僧・快我上人は、 境内の堂舎を整備し、東寺管轄の寺院として再興されました。1788年に、京都に起こった大火事、天明の大火によって、
神泉苑の各社も多く焼失してしまいました。
しかし、すぐさま御社の再建計画が立てられ、
ご寄進を各方面から頂戴し、数十年をかけて堂舎が再建されました。

神泉苑は手ごろな広さでした。滞在時間は40分程度で十分堪能できました。神泉苑の御朱印はたくさんの種類がありました。わたしは弘法大師さまの御朱印を授与いただきました。そのほかには桓武天皇、嵯峨天皇、源義経、弁財天、不動明王、善女龍王等々の御朱印がまるで絵葉書のように用意されていました。

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