般若心経2

般若心経についてさらに調べてみることにしました。

般若心経の正式名称は般若波羅蜜多心経ですがもともとはインドでできたお経です。インドでできたお経ですからインドの言語でつづられていました。それはサンスクリットです。サンスクリットとは・・・ウイキペディアには以下の記述があります。・・・

サンスクリットसंस्कृत saṃskṛta、英: Sanskrit)は、古代インド・アーリア語に属する言語。インドなど南アジアおよび東南アジアにおいて用いられた古代語。文学、哲学、学術、宗教などの分野で広く用いられた。ヒンドゥー教の礼拝用言語でもあり、大乗仏教でも多くの仏典がこの言語で記された。現在もその権威は大きく、母語話者は少ないが、現代インドでも憲法の第8付則に定められた22の指定言語の1つである。この附則が制定された時に指定された15言語にサンスクリットはすでに入っており、インドの紙幣にもサンスクリットでの金額記載は含まれている

サンスクリットは「正しく構成された(言語、雅語)」を意味し、この単語それ自体でこの言語を意味するが、言語であることを示すべく日本ではサンスクリット語とも呼ばれる。ただし、この言語が「サンスクリット」と呼ばれるようになったのが確認できるのは5世紀から6世紀ごろのことである

漢字表記の梵語(ぼんご)は、中国や日本や韓国やベトナムなど漢字文化圏でのサンスクリットの異称。日本では近代以前から、般若心経など、サンスクリットの原文を漢字で翻訳したものなどを通して梵語という呼称が使われてきた。梵語とは、サンスクリットの起源を造物神梵天(ブラフマー)とするインドの伝承を基にした言葉である。

誰がインドから中国へこのお経を持ち込んだのか?それは、玄奘三蔵です。玄奘三蔵とは・・・西遊記の三蔵法師のモデルとなった人物。彼ががインドから中国へ600部以上のお経を持ち帰りました。西暦600年頃の出来事です。当時の事ですから中国からインドへの旅はとても大変なものであったことは十分に想像できます。インドに行く事自体がほぼ自殺行為。さらに仏教の経典であるお経を持ち帰るというミッションはさらに成功確率が低いものだったでしょう?インドの僧侶からすれば、遠い中国から来たどこの馬の骨かもわからない奴に大切な経典を譲るなんてことがあるのか?言葉もろくに通じないと思われます。しかし、玄奘三蔵は見事にそのミッションを達成し、経典を中国へ持ち帰りさらにサンスクリットで書かれた経典を漢字に置き換える事にも成功しました。玄奘三蔵がいなかったら今の般若心経は存在しません。まさに偉業です。持ち帰ること自体すごいことですが、さらにすごいことがサンスクリットで書かれた経典を漢字に置き換える翻訳をしたことです。

サンスクリットが意味する言葉に合致する漢字を当てる意訳と同時にサンスクリットの音にあわせた音写を見事に玄奘三蔵はやってのけました。

さらにウイキペディアには以下の記述があります。

呼称

日本で広く流布している玄奘三蔵訳の正式な経題名は『般若波羅蜜多心経であるが、一般的には『般若心経』と略称で呼ばれている。これをさらに省略して『心経』(しんぎょう)と呼ぶ場合もある。なお、漢訳の題名には「経」が付されているが、サンスクリット典籍の題名は「Prajñā(般若)-pāramitā(波羅蜜多)-hṛdaya(心)」であり、「経」に相当する「sūtra(スートラ)」の字句はない。

日本の仏教の宗派によっては、単に「般若心経」「般若波羅蜜多心経」と呼ぶのではなく、冒頭に「仏説」(仏(釈迦)の説いた教え)や「摩訶」(偉大な)の接頭辞をつけて、『仏説摩訶般若波羅蜜多心経』(ぶっせつまかはんにゃはらみったしんぎょう)や『摩訶般若波羅蜜多心経』(まかはんにゃはらみったしんぎょう)と表記することもある。なお、現存する最古の漢訳文とされる弘福寺(長安)の『集王聖教序碑』に彫られたものにおいては、冒頭(経題部分)は『般若波羅蜜多心経』と記載されているが、末尾(結びに再度題名を記す部分)では『般若多心経』(はんにゃたしんぎょう)と略されている

さらに次回以降、般若心経について調べてみます。

コメント

タイトルとURLをコピーしました