年末年始にはテレビCMや電車の広告で「佐野厄除け大師」の名前をよく聞きます。関東の三大師とのフレーズが耳に残ります。また、ことしはわたくし本厄ですので、厄除けにはかなり興味があります。そこで関東三大師についてネットで調べてみました。ウイキペディアに以下の記述がありました。
関東三大師(かんとうさんだいし)は次の2つを指す。
- 真言宗の弘法大師を祀る関東厄除け三大師(かんとうやくよけさんだいし)
- 天台宗の元三大師を祀る関東三大師、関東の三大師
これは知りませんでした。真言宗と天台宗とでそれぞれに三大師があるとは・・・ではそれぞれについて調べてみます。
関東厄除け三大師
関東厄除け三大師とは、弘法大師(空海)を祀る寺院(真言宗)のうち、次の3つの寺院を指す。
- 西新井大師・・・總持寺(そうじじ)は、東京都足立区西新井一丁目にある真言宗豊山派の寺で、西新井大師(にしあらいだいし)の通称で広く知られる。山号を五智山と称し、寺名は詳しくは五智山遍照院總持寺(ごちさん へんじょういん そうじじ)と称する。古くから「関東の高野山」とも呼ばれる。新四国四箇領八十八箇所霊場第1番札所。
- 川崎大師・・・平間寺(へいけんじ)は、神奈川県川崎市川崎区にある、真言宗智山派の大本山。1128年(大治3年)建立。川崎大師(かわさきだいし)という通称で知られる。山号は金剛山。院号は金乗院(きんじょういん)。尊賢(そんけん)を開山、平間兼乗(ひらまかねのり)を開基とする。2022年(令和4年)時点の貫首は第45世・中興第2世藤田隆乗が務める。
- 観福寺大師堂・・・観福寺(かんぷくじ)は、千葉県香取市牧野にある真言宗豊山派の寺院。山号は妙光山。寺伝によれば、寛平2年(890年)、尊海僧正の開基という。本尊は平将門の守護仏とされる聖(しょう)観世音菩薩。千葉氏の祈願所として歴代武将の厚い信仰を受け、中世以降佐原の伊能家一族の帰依を受けるようになり、江戸時代には末寺五十三ヶ寺をもつ中本山として厄除大師信仰の中心となって庶民の信仰を一身に集めた。
関東の三大師
関東の三大師という場合は、厄除け大師とも呼ばれる元三大師(良源)を祀る寺院(天台宗)のうち次の3つの寺院を指す場合が多く、関東厄除け三大師とは全く別な物である。
- 佐野厄除け大師・・・惣宗寺(そうしゅうじ) は、栃木県佐野市にある天台宗の寺院である。山号は「春日岡山」、寺号は詳しくは「春日岡山 転法輪院 惣宗官寺(かすがおかやま てんぼうりんいん そうしゅうかんじ)」と称する。一般には佐野厄除け大師の通称で知られる。年末年始には関東地方を中心にテレビCMが多く放送されるため広く知られている。
概要
開基(創立者)は藤原秀郷、開山(初代住職)は宥尊である。青柳大師、川越大師と共に先代住職が「三大師」を提唱。以後定着し「関東の三大師」の一つに数えられることが多く、毎年の正月には初詣の参拝客で賑わう。
- 青柳大師・・・龍蔵寺(りゅうぞうじ)は、群馬県前橋市にある天台宗の寺院である。山号は青柳山(せいりゅうさん)。院号は談義堂院(だんぎどういん)。本尊は阿弥陀如来。元三大師を安置し、青柳大師(あおやぎだいし)とも称される。
歴史
この寺は、寺伝によれば784年(延暦3年)勝道によって創建されたと伝えられるが、南北朝時代の1370年(応安3年)笠間道玄の開基、豪尊の開山により創建されたとも伝えられる。古くから天台宗の中心的な寺院のひとつとして栄え、天台宗の檀林(学問所)が設置されていた。江戸時代には前橋藩主の帰依を得、藩主から寺領を与えられていた。
- 川越大師・・・喜多院(きたいん)は、埼玉県川越市にある天台宗の寺院。山号は星野山(せいやさん)。良源(慈恵大師、元三大師とも)を祀り川越大師の別名で知られる。建物の多くが重要文化財に指定され、寺宝にも貴重な美術工芸品を多く有する。広大な境内は池や掘を廻らせた景勝地となっている。1月3日の初大師(だるま市)、節分、長月護摩講塔、七五三、菊祭りなど諸行事はむろん、四季折々の行楽客で賑わう。境内にある五百羅漢の石像も有名である。毎年、正月三が日の初詣には埼玉県内の寺院の中では最も多い約40万人の参詣客が訪れる。
概略
喜多院はかつての小仙波村に属し、武蔵野台地の東端、川越城の南に位置する。
歴史
平安初期の天長7年(830年)、淳和天皇の命で円仁(慈覚大師)が天台宗の教えを東国に広めるために無量寿寺として開創したのが始まりとされる。当時の無量寿寺は阿弥陀如来を本尊として、不動明王・毘沙門天を脇侍として祀った。その後、平将門の乱や比企の乱によって、無量寿寺は衰退する。
その後、鎌倉時代後期の永仁4年(1296年)に、伏見天皇が天台宗の川田谷泉福寺の中興三世の僧侶であった尊海僧正に勅願寺無量寿寺の再興を命じる。関東天台宗の本山とした。上代文学研究者の山野清二郎は、二度の蒙古襲来によって北条執権に対する不満が高まっており、承久の乱以来失墜していた朝廷・公家の権威と存在感の回復を示すためと推測している。また尊海は成田氏の助力を受け、まず仏地院(中院)を再建し、天台の教えを広めるためとして、1301年(正安3年)後伏見天皇から関東天台宗580余りの寺すべての本山たる地位を与えられた。その後、仏蔵院(北院)、多聞院(南院)を建立した。後奈良天皇からは「星野山(現在の山号)」の勅額を賜るが、戦国時代の後北条氏と扇谷上杉氏との間の河越夜戦をはじめとする約10年に及ぶ合戦において1537年 (天文6年)に炎上し、寺勢も衰退した。
慶長4年(1599年)、徳川家の尊崇が厚かった天海僧正が第27世住職として入寺し、寺号を喜多院と改めた。川越藩主となった老中・酒井忠利は喜多院の再興に当たった。慶長18年(1613年)には徳川秀忠の関東天台法度により関東天台総本山と定められ、500石の寺領を賜った。また、山号も東の比叡山を意味する「東叡山」に改められ、ますます隆盛を誇ることになる。なお、東叡山の山号はのちに上野寛永寺に移る。寛永15年(1638年)、川越大火で山門と経蔵以外の伽藍を焼失するが、翌年、徳川家光の命で、江戸城紅葉山御殿の一部を移築した。これが今に残る客殿、書院、庫裏であり、これらを運ぶために新河岸川の舟運が開かれた。川越藩主を経て幕閣で老中にあった堀田正盛は喜多院や仙波東照宮再建の奉行を命ぜられ、天海を助けた。4代将軍・徳川家綱は200石を加増し750石・寺域48,000坪の大寺となり、徳川家に厚く保護され隆盛した。
なお、永禄年間(1558年 – 1570年)頃までは北院・中院・南院の3院が存在していたが、寛永10年(1633年)に中院のあった場所に仙波東照宮が建てられた為、中院はさらに200m南方に移動し、南院は明治の初めに廃院となり、その一角とされる場所には数十基の石の塔婆が残っている。
「日本三大羅漢」の1つ・五百羅漢は天明2年(1782年)から文政8年(1825年)の半世紀にわたって建立されたもので、538体の石仏が鎮座する。石仏はすべてが異なる表情・ポーズであるが、深夜、羅漢の頭を撫でると1つだけ温かいものが必ずあり、それは亡くなった親の顔に似ている、という伝承が残る。
越前松平家の流れを汲む松平大和守家の川越藩主(川越で逝去した松平朝矩から松平直侯まで5人)の廟もある。
以下を入れるとする説もある。
- 拝島大師
- 足利厄除け大師
- 寺岡山元三大師
- 厄除元三大師(深大寺)
- 道合大師(弘法大師を祀る)
- 小塚大師(弘法大師を祀る)
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