11月22日

11月22日 宮中で鎮魂祭(ちんこんさい、みたましずめのまつり)が執り行われます。これについてウイキペディアには以下の記述があります。

鎮魂祭(ちんこんさい、みたましずめのまつり)とは、宮中で新嘗祭の前日に天皇の鎮魂を行う儀式である。宮中三殿に近い綾綺殿にて行われる。一般的ではないものの、宮中と同日に行われている石上神宮や、彌彦神社、物部神社など、各地の神社でも行われる例もある(うち彌彦神社は年二回)。天皇に対して行う場合には「みたましずめ」「みたまふり」と言う。鎮魂祭はかつては旧暦11月の2度目の寅の日に行われていた(太陽暦導入後は11月22日)。この日は太陽の活力が最も弱くなる冬至の時期であり、太陽神アマテラスの子孫であるとされる天皇の魂の活力を高めるために行われた儀式と考えられる。また、新嘗祭(または大嘗祭)という重大な祭事に臨む天皇の霊を強化する祭でもある。第二次世界大戦以後は皇后や皇太子夫妻に対しても行われている。

宇気槽の儀

鎮魂の儀では、宇気槽(うきふね、うけふね)と呼ばれる箱を伏せ、その上に女官が乗って桙で宇気槽の底を10回突く「宇気槽の儀」が行われる。これは日本神話の岩戸隠れの場面において天鈿女命が槽に乗って踊ったという伝承に基づくとされている。『古語拾遺』に「凡(およ)そ鎮魂の儀は、天鈿女命の遺趾(あと)なり」とある。かつてこの儀は、天鈿女命の後裔である猿女君の女性が行っており、「猿女の鎮魂」とも呼ばれていた。

魂振の儀

鎮魂の儀の後、天皇の衣を左右に10回振る魂振の儀が行われる。これは饒速日命が天津神より下された十種の神宝を用いた呪法に由来するとされる。『先代旧事本紀』には、饒速日命の子の宇摩志麻治命が十種の神宝を使って神武天皇の心身の安鎮を祈ったとの記述があり、「所謂(いはゆる)御鎮魂祭は此よりして始(おこ)れり」としている。

関連項目

  • 鎮魂・・・鎮魂(ちんこん、たましずめ)とは、人の魂を鎮めることである。今日では「鎮魂」の語は、死者の魂(霊)を慰めること、すなわち「慰霊」とほぼ同じ意味で用いられる。しかし、元々「鎮魂」の語は「(み)たましずめ」と読んで、神道において生者の魂を体に鎮める儀式を指すものであった。広義には魂振(たまふり)を含めて鎮魂といい、宮中で行われる鎮魂祭では鎮魂・魂振の二つの儀が行われている。

    津城寛文は、著書「折口信夫の鎮魂論」(春秋社、2012年)で、鎮魂とは神道の根本となる、一般に考がえられているよりももっと大きな思想で、折口の有名なマレビト論も鎮魂論で置き換えられる、と主張している。

  • 八神殿・・・八神殿(はっしんでん)は、天皇守護の8神を祀る神殿。

    古代から中世の間には神祇官西院に、その宮中八神殿が衰退したのち江戸時代には吉田神社境内・白川家邸内にそれぞれ設けられた。現在は皇居の神殿(宮中三殿の1つ)に合祀されている。

    祀られる神は次の8神。『延喜式』と『古語拾遺』で表記は異なるが、同じ神を指す。

    概要

    平安時代の宮中(平安京大内裏)では、神祇官西院において「御巫(みかんなぎ)」と称される女性神職、具体的には大御巫2人(のち3人)・座摩巫1人・御門巫1人・生島巫1人により重要な神々が奉斎されていた。八神殿はそれらのうち大御巫(おおみかんなぎ)によって奉斎された8祠の総称である。祀られる8神は天皇の健康に関わる重要な神々で、『延喜式』神名帳においては全国3,132座の筆頭に記載されている。

    古図によると、八神殿は各神を祀る社殿がそれぞれ独立しており、神祇官西院の西壁に沿って東面した社殿8宇が南北に並んだ。8宇の周囲には南北10丈・東西3丈の朱色の玉垣を三方に廻らし、各殿内に神体は置かず榊のみを置いたという。玉垣には、第一殿・第五殿・第八殿の前の3箇所に鳥居を設けていた。また『延喜式』臨時祭の御巫等遷替供神装束条によると、神衣は男神4体分・女神4体分で、御巫が成人すると交代しその交替ごとに神殿・神衣・調度品全てを一新するよう規定されている。奉仕する大御巫(単に御巫とも)は7歳以上の童女から選ばれ、『令集解』職員令神祇官条の御巫卜兆の時点では倭国巫2人から成ったが、『延喜式』神名帳の時点では天皇・中宮・東宮のための3人に改められている

    8神に関する最も重要な祭祀は、新嘗祭前日に行われた鎮魂祭である。鎮魂祭は天皇の霊魂の活力を高めるための祭りで、八神殿の8神に大直日神を加えた9神により、浮遊する霊魂を身体の内に止めて心身の統一が企図された

    祭神

    冒頭の神産日神・高御産日神・玉積産日神・生産日神・足産日神の5神は、いわゆる「ムスビの神」として霊魂に関わる神々で、特に神産日神・高御産日神は造化三神のうちの2神である。次の大宮売神は、宮殿の人格化とも内侍(女官)の神格化ともいわれ、君臣の上下を取り持つ神とされる。そして御食津神は食物を司る神、事代主神は言葉を司る神とされる(一般に出雲系の事代主神とは異なると見られる)

    また『古語拾遺』によると、初代神武天皇の時に皇天二祖(天照大神・高皇産霊神)の詔のままに神籬を建て、高皇産霊・神皇産霊・魂留産霊・生産霊・足産霊・大宮売神・事代主神・御膳神を奉斎したといい、その祭祀はこれに始まるとしている

    なお、祭神8神は天皇に直接関わる重要な神々であるが、そのうちに皇祖神である天照大御神が含まれていないことも特徴の1つである。古代に天照大神が宮中に祀られたことはなく、『日本書紀』の記す伝承では天照大神は崇神天皇(第10代)の時に宮廷外に出されたとしている(現在の伊勢神宮)。実際に天照大神が朝廷の最高神に位置づけられるのは7世紀後半以降であり、それ以前の最高神は高皇産霊尊(高御産日神)であったとする説もあるが、高御産巣日神は天照大御神の父で、生産霊神(活魂命、天活玉命、生島神)こそが天照大御神、足産霊神(足島神)をその妻稚日女尊と同神と解し、八神殿は歴代の皇祖神を夫婦で祀ったものと見る説もある。また前者の説から、7世紀末頃に高皇産霊尊は宮中に、天照大神は伊勢に住み分けたとする説もある

    歴史

    概史

    8神については、前述のように大同2年(807年)編纂の『古語拾遺』で記述が見えるほか、天安3年(859年)には神産日神・高御産日神・玉積産日神・生産日神・足産日神の5神の神階が無位から従一位に昇った旨の記事が、その4日後に神産日神・高御産日神・玉積産日神・足産日神の4神が正一位の極位に達した旨の記事が記載されている。

    延長5年(927年)成立の『延喜式』神名帳では、「御巫祭神八座 並大 月次新嘗」として、式内大社に列するとともに月次祭・新嘗祭では幣帛に預かる旨が記載されている

    神祇官の祭祀は中世には衰退するが、南北朝時代までは古代の形が維持されていた。しかし応仁の乱での焼失以後は宮中では再建されず、江戸時代に吉田家が吉田神社境内に、白川家が邸内にそれぞれ八神殿を創建して宮中の八神殿の代替とされた

    明治維新を経て神祇官が再興されるにあたり、明治2年(1869年)に神祇官の神殿が創建されて遷座祭が行われた。この際には、八神殿の8神だけでなく、天神地祇と歴代の天皇の霊も祀られた。それまで歴代の天皇の霊は黒戸で仏式で祀られていたが、これに伴い黒戸は廃止されている。明治5年(1872年)9月に神祇官は宣教のみを行うこととなり、八神殿は神祇官から宮中へ遷座、歴代天皇の霊は宮中の皇霊殿へ移された。明治5年(1872年)10月に八神殿の8神を天神地祇に合祀し、「八神殿」の名称を廃して「神殿」に改称した。そしてこの神殿が現在も皇居の宮中三殿の1つとして継続している。

  • 直毘神・・・直毘神(なおびのかみ、なほびのかみ)は神道の神である。

    穢れを払い、禍(まが)を直す神とする説がある。

    日本神話の神産みにおいて、黄泉から帰ったイザナギが禊を行って黄泉の穢れを祓ったときに、その穢れから禍津日神が生まれた。この禍津日神がもたらす禍を直すために生まれたのが直毘神である。『古事記』では八十禍津日神・大禍津日神が成った後に神直毘神(かみなほびのかみ)、大直毘神(おほなほびのかみ)と伊豆能売の三柱が成ったとしている。『日本書紀』第五段第六の一書では八十枉津日神が成った後に神直日神(かみなほひのかみ)大直日神(おほなほひのかみ)の二柱の神が成ったとしている。同段第十の一書では少し異なっており、イザナギが禊の際に大直日神を生み、その後に大綾津日神(大禍津日神と同一神格)を生んだとしている。

 

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