12月27日とピーターパン

12月27日はピーターパンの日だそうです。

1904年のこの日、イギリスの劇作家ジェームス・バリーの童話劇『ピーターパン』がロンドンで初演されたことに由来するそうです。
劇作家ジェームス・バリーについて調べてみました。ウイキペディアには以下の記述があります。
初代准男爵サー・ジェームズ・マシュー・バリー(Sir James Matthew Barrie, 1st Baronet, OM。1860年5月9日 – 1937年6月19日)は、イギリスの劇作家、童話作家、ファンタジー作家。「バリ」と表記されることもある。『ピーター・パン』の作者として知られる。

人物

スコットランド・キリミュアで生まれ進学し、ロンドンに転居しヒット作となる多くの小説や戯曲を執筆した。そこでルウェイン・デイヴィス家の息子たちと出会い、『小さな白い鳥』を含む、ケンジントン・ガーデンズで魔法の冒険を繰り広げる幼い少年について執筆するきっかけとなり、その後、年を取らない少年と普通の女の子であるウェンディがネバーランドを冒険するおとぎ話『ピーター・パンあるいは大人になりたがらない少年』を執筆した。

ヒット作を出し続けていたが、ピーター・パンの影響は強く、女の子の名付けに「ウェンディ」が人気となった。デイヴィス夫妻の死後、非公式ではあるがデイヴィス家の息子たちを養子とした。1913年6月14日、ジョージ5世から准男爵の爵位を受け、1922年、新年叙勲にてメリット勲章を授与された。死の直前、ロンドンにあるグレート・オーモンド・ストリート子供病院にピーター・パンに関わる権利を贈与した。

年譜

  • 1860年 – 織工の父、石工の娘の母のもとで誕生。姉と兄がいた。エディンバラ大学を卒業。ノッティンガムの新聞社に勤めながら雑誌への寄稿などを行っていた。
  • 1885年 – ロンドンに行き文筆業に専念。
  • 1888年 -『オールド・リヒト物語』を発表、有名になる。
  • 1894年 – 女優のメアリ・アンセルと結婚する。
  • 1900年 -『トミーとグリゼル』出版、ケンジントン公園の知り合い・ルウェリン・デイヴィス家の息子たち(5人兄弟)をサレーの別荘に招待。
  • 1902年 -『小さな白い鳥』(第13章から第18章にピーターパンが出演。なおモデルはデイヴィス夫人・シルビアとその長男・ジョージとされる)を出版。1900年頃から劇作をするようになった。戯曲『あっぱれクライトン』が上演される。
  • 1904年 – 戯曲『ピーター・パン 大人になりたがらない少年』(3幕)を執筆。この作品は大成功した。
  • 1906年 -『ケンジントン公園のピーター・パン』(『小さな白い鳥』から抜粋)を出版。
  • 1909年 – 離婚。デイヴィス夫妻死亡により子供2人を養子にする。
  • 1911年 – さまざまな版の最終版として小説『ピーター・パンとウェンディ』を執筆、刊行した。
  • 1912年 – ケンジントン公園に養子マイケルをモデルにしたピーターパンの像を建てる。
  • 1913年 – ジョージ5世から爵位(准男爵)。
  • 1919年 – セント・アンドルーズ大学の学長に就任。
  • 1921年 – 養子・マイケルが溺死(20歳)。
  • 1922年 – メリット勲章を授与される。
  • 1928年 – 戯曲『ピーター・パン』5幕版を出版。
  • 1930年 – エディンバラ大学の学長に就任(1937年に辞任)。
  • 1937年 – 死去

 

バリーは作家になりたいと願っていたが、家族は牧師などの職業に就くよう説得を試みていた。アレクサンダーのアドバイスにより大学に行くことで譲歩したが、文学を専攻することにした。エディンバラ大学に進学し、学内紙に劇評を寄稿した。1882年4月21日、文学修士を得て卒業した

姉妹が『スコッツマン』紙で求人情報を見つけ、バリーは『ノッティンガム・ジャーナル』紙のスタッフ・ジャーナリストとして1年半勤務した。その後キリミュアに戻り、ロンドンの『セント・ジェームズ・ガゼット』紙に母が幼少期に育った町(仮名スラムズ)の物語を用いて寄稿した。スコットランドに関わるものを好む編集者により、バリーのこの物語はシリーズ化された。これらはバリーの最初期の小説『オールド・リヒト物語』(1888年)、『スラムズの窓』(1890)、『小牧師』(1891年)の基となった

『オールド・リヒト物語』にはバリーの祖父が所属していた敬虔な宗派について描かれている。バリーの初期の作品について現代の文学批評家からは、スコットランドの町をセンチメンタルおよびノスタルジックに描いており、19世紀の工業化からはほど遠い菜園派風として軽んじられ好まれていない。しかし当時これらの作品は人気があり、バリーは人気作家となった。その後バリーは自身の経験を描いた『Better Dead 』(1888年)を自費出版したが売上は上がらなかった。少年と男性のファンタジーであり、ハッピーエンドではないトミー・シリーズ『センチメンタル・トミー』(1896年)、『トミーとグリゼル』(1900年)が出版された。

バリーは舞台への興味を深め、詩人リチャード・サヴェイジの伝記を基にHBマリオット・ワトソンと共に脚本を執筆したが、1度上演したのみで批評家に酷評され閉幕した。その直後、ヘンリック・イプセンの『ヘッダ・ガーブレル』および『幽霊』をパロディ化した『イプセンの幽霊』(1891年)を執筆した。1914年までイギリスでは『幽霊』は権利化されていなかったが、当時クラブの出し物としてセンセーションを巻き起こした

ロンドンにあるトゥールズ・シアターにて『イプセンの幽霊』が上演された際、イプセンの作品を英語に翻訳していたウィリアム・アーチャーが観劇した。アーチャーはこのパロディのユーモアを気に入り、他者に推薦した。バリーの劇作3作目『Walker, London 』(1892年)のために若い女優メアリー・アンセルが紹介された。 1894年7月9日、2人は結婚した。バリーはセント・バーナードの子犬をアンセルに買い与え、のちに『小さな白い鳥』に登場することとなった。以降、妻の名「メアリー」はバリーの小説に多く使用された。インプレサリオであるリチャード・ドイリー・カートのためにコミック・オペラ『ジェーン・アニー』(1893年)を執筆したが公演はうまくいかず、友人のアーサー・コナン・ドイルに改訂を依頼した。

1901年から1902年、立て続けにヒット作を生み出した。戦地から戻ったかつての求婚者を若い姪と取り合うオールド・ミスを描いた『クオリティ通り』がヒットした。その後、貴族の家族と使用人たちが難破して無人島に辿り着くと立場が逆転する『あっぱれクライトン』は精巧な演出により批評家に称賛された。

1902年、ホダー&スタウトンによりイギリス国内で出版された小説『小さな白い鳥』にピーター・パンが初登場し、同年アメリカで『スクリブナーズ・マガジン』で連載された。1904年12月27日、バリーの最も有名で長年続くヒット作となる『ピーター・パンあるいは大人になりたがらない少年』が初演された。ウィリアム・アーネスト・ヘンリーの娘マーガレットはバリーを「フレンド」の変形である「フレンディ」と呼んでいたが「R」がうまく発音できず「フウェンディ」と聞こえることから着想を得て、登場人物に「ウェンディ」と名付けた。ビクトリア朝後期およびエドワード朝の中流家庭を表す、社会的制約のあるブルームスベリーの町はネバーランドと比較して道徳観で相反していた。ジョージ・バーナード・ショーは作品に潜む隠喩の存在を示唆し、「一見、子供向けのクリスマス演劇のようだが、実際は大人向けである」と評価した。

『ピーター・パン』の上演以降、バリーは舞台においてヒット作を出し続けたが、その多くは自身の信念を基に社会問題を扱っていた。『十二磅の目つき』(1921年)では離婚した妻が同僚となり収入を得ていく姿を描いた。『メアリ・ロウズ』(1920年)、『おい、ブルータス』(1917年)などでは年を取らない子供やパラレルワールドを再び扱った。

1909年から1911年、ほかの多くの脚本家たちと共に侍従長局による検閲に反対しようと試みていた

1911年、小説『ピーター・パンとウェンディ』でピーター・パンの物語を発展させた。1929年4月、バリーはピーター・パン関連作品の著作権をロンドン最大の子供病院であるグレート・オーモンド・ストリート子供病院に寄贈した。

最後の戯曲『少年ダビデ』(1936年)で聖書のサウル王と若いダビデの物語を描いた。ピーター・パン役と同様、ダビデ役は女性が演じていた。バリーは女優エリザベート・ベルクナーのためにこの作品を執筆した

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