2代目服部半蔵 正成②

前回に引き続き2代目服部半蔵 正成について調べます。ウイキペディアには以下の記述があります。

伊賀越えとその後

天正10年(1582年)6月、信長の招きで家康が少数の供のみを連れて上方を旅行中に本能寺の変が起こるが、このとき堺に滞在していた家康一行が甲賀・伊賀を通って伊勢から三河に帰還した、いわゆる「伊賀越え」に際し、先祖の出自が伊賀である正成は商人・茶屋四郎次郎清延とともに伊賀、甲賀の地元の土豪と交渉し、彼らに警護させることで一行を安全に通行させ、伊勢から船で三河の岡崎まで護衛した。同地で味方となった彼らは後に馬廻、伊賀同心、甲賀同心として徳川幕府に仕えている。 この時、正成は栗という場所にいた所を召し出され伊勢の白子まで同行したという。正成は一揆勢に対し道をあけるよう大声で呼びかけその隙に家康らを通行させたが、相手が襲ってきたため馬を乗り入れて応戦した。しかし土塁に駆け上がった際に堀へ転落し、上から槍で脚を十ヶ所近く突かれ気を失った。家臣の芝山小兵衛は家康へ「正成は討ち死にした」と伝えたが、遺体を回収しようと戻ったところ生きていたため、これを介抱しながら共に帰ったという

岡崎に帰着した後の6月15日、正成は御先手頭を申し付けられた

同年には本能寺の変により甲斐・信濃の武田遺領を巡る天正壬午の乱が発生し、7月に正成は家康に従い甲斐へ出陣する

家康は現在の北杜市域を中心に布陣した相模国の北条氏直に対して甲府盆地の各地の城砦に布陣し、正成は伊賀衆を率いて勝山城(甲府市上曽根町)や右左口砦・金刀比羅山砦(甲府市右左口町)に配置され、甲斐・駿河を結ぶ中道往還を監視した。勝山城で正成は津金衆の協力を得て周辺の地を守備した

同年8月、徳川勢が信濃国佐久郡に侵攻すると、正成は伊賀衆を率いて津金衆・小尾祐光らの郷導を受け、9月初旬には佐久郡江草城(獅子吼城)を夜襲し落城させる。9月下旬、三嶋方面への北条氏侵攻により三枚橋城の松平康親、大澤基宿から要請を受けた正成は戸倉城の援将として90騎程を率いて防衛し、三嶋で刈田を行った。北条勢の戸倉城攻撃の際は援将である本多重次と共に防衛にあたり、正成は岡田元次と韮山で刈田を行った。 この頃、正成は韮山の押さえのため天神ヶ尾砦に入り、韮山方面への攻撃と防衛にあたっている。 9月8日の夜には、敵の砦である佐野小屋に伊賀者2人を忍び入れて詳細に報告させ、同月15日、伊賀衆を先鋒とし、大雨に紛れ攻め落とした。この功を家康は「信玄・勝頼の二代を防いだ堅固な砦をついに落とした」と賞賛したという

同年12月、正成と伊賀衆は江草城(獅子吼城)守備の任につく

天正11年8月、正成は命を受け、伊賀者200人を率いて甲斐国の谷村城(山梨県都留市)城番となり守備にあたった

天正12年3月、小牧・長久手の戦いでは伊勢松ヶ島城の加勢で伊賀甲賀者100人を指揮し、鉄砲で豊臣方を撃退している。正成は二の丸を守備し、筒井勢を防いだ。続く蟹江城の奪還戦で正成と配下の伊賀鉄砲衆は松平康忠と共に東の丸(前田口)の包囲に加わり、井伊直政の大手口突入が始まると二の丸へ攻め入った

西念寺 (新宿区)にある服部半蔵正成の墓

天正18年(1590年)の小田原征伐に鉄砲奉行として従軍した。 正成は大組百人の組頭として根来衆50人を率いていたという。この時、日下部兵衛門(根来衆50人)、成瀬吉右衛門(成瀬正成の誤り、30人)も大組百人の組頭を務めている。戦で正成は十八町口にて奮戦し、首を十八級挙げたという

この際、正成が用いていた黒地に白の五字附四半指物を使番の旗印にしたいと本多正信を通じて家康より求めがあったため、正成はすぐにこれを差し出し、以後は紺地に白の矢筈車紋の旗を用いた。以後、徳川軍の使番旗には白地に黒五字の旗印が採用され、使番の中でも熟練し功績の多い者に使用が許された。なお、正成が五字四半指物の代わりに用いたという「矢筈車の旗」の家紋の詳細については判明しておらず、一般的に服部氏が使用する「源氏車に矢筈」や「矢筈車」と呼ばれる場合のある「矢尻付き三つ矢筈」等が推察される。

小田原の陣の功により遠江に知行を与えられた正成は、家康の関東入国後は与力30騎および伊賀同心200人を付属され同心給とあわせて8,000石を領した。自身は武将であったが、父親である保長が伊賀出身で忍びの出であった縁から徳川家に召し抱えられた伊賀同心を統率する立場になったという。 この頃の知行は遠州布引山麓の村(場所不明。静岡県牧之原市布引原か)、遠州イサシ村(浜松市西区伊左地町)、サハマ村(浜松市西区佐浜町)、天正の頃は遠州長上郡小池村(浜松市東区小池町)のあたりであったといわれる。また、慶長元年(1597年)には正成が武蔵国橋戸村(東京都練馬区大泉町)を領していた記述が地方文書に認められる

文禄元年(1592年)には肥前名護屋へ鉄砲奉行として従軍する。徳川の陣営は前田利家の陣営と隣同士であり、共用の水汲み場で下人や足軽らの諍いが起きた。集まった両陣営の人数は戦いが起きる寸全にまで膨れ上がったため、正成は配下の兵に命じて火縄に点火させ、前田の陣に鉄砲を向けたという。また、「正成は争いを収めようと肌脱ぎ駆け回ったが収まらず、本多忠勝が出てようやく事態が収まった」とする説もある。この戦が正成にとって最後の出陣となった。

慶長元年11月14日(1597年1月2日)に病没し、江戸麹町清水谷の西念寺に葬られた。死因となった病名は現在も不明である。正成は隊士のために横死したとする説を記載する史料もあるが、真偽は定かではない。 また、没した日について、寛政重修諸家譜は服部家の家伝や西念寺の墓碑とは異なる慶長元年11月4日と記している

西念寺は、正成が生前に信康の菩提を伴うために創建した浄土宗の庵・安養院の後身である。安養院は江戸麹町の清水谷(現在の千代田区紀尾井町清水谷公園付近)にあり、正成は1593年(文禄2年)家康から300両を与えられ寺院を建立するよう内命を受けたが、西念寺の完成を待たず死去した。その後、西念寺は江戸城の拡張工事のため1634年(寛永11年)頃に現在地に移転したとする。西念寺の山号・寺名は彼の法名に因み、現在も毎年11月14日に「半蔵忌」の法要が行われている。

伊賀同心との確執

伊賀越えの後、新たに正成が指揮権を預けられた「伊賀同心」「伊賀衆」は、伊賀越えを支援した縁で徳川家への仕官を望んだ伊賀国の地侍とその家族であり、正成自身の家臣ではなかった。家康は彼らを同心として雇い、指揮権を伊賀の血筋である正成に与えた。しかし同心らは「自分達は徳川家に雇われたのであり服部氏の家来になったのではない」と認識していた事、正成の父である保長が早い時期に伊賀を出て三河に住んだ事、伊賀における正成の家格は自分達よりも下である事などを理由に、彼に指揮される事を無念に思っていたという。のちに彼らは「伊賀同心二百人組」として組織化され江戸城周辺の守備にあたったが、正成の死後も伊賀同心二百人組と服部半蔵家との確執は続いた。指揮権を継いだ正成の長男で三代目半蔵である正就の改易後、伊賀同心二百人組は四つまたは六つに分割解体され、それぞれの組には新たに指揮者となる旗本を置いて再編成される事となった。この時、四代目半蔵となった正就の弟正重は大久保長安に仕える金山同心であったため、伊賀同心の指揮者にはならなかった。なお、彼ら伊賀同心とは別に古くから三河地方に定住していた伊賀出身者や服部党も多数おり、彼らもまた、保長や正成と同じく松平・徳川家に仕えていたとみられる。

その後の服部家

正成の死後、嫡男の正就が三代目の服部半蔵を継ぎ、父の正成に続いて伊賀同心支配役の任についた。 その後、正就は関ヶ原の合戦前後、鉄炮奉行として家康の警護や大田原城の戦時改修、白河城攻め等に加わるが、父の代から続く伊賀同心との軋轢や当時幕府に禁じられていた夜間の無断外出等を行った事で改易され、伊賀同心の支配と服部半蔵の名を返上する事となった。 正就の後、佐渡金山同心となっていた次男の正重が四代目の服部半蔵を継いだが、正就の改易に伴い伊賀同心の支配の任も解かれていたため、正重は服部半蔵の名を継ぐのみとなった。正重は佐渡金山同心を務めたのち長年を村上藩に仕え、晩年は桑名藩に招かれ上席家老を務めた。正重の功により服部半蔵の家は幕末まで代々家老職を務める事となった。

服部半蔵の屋敷

正成の屋敷は尾御門内にあったため、この門は後に半蔵御門と呼ばれるようになったという。その後、正成は赤坂御門の内(松平出羽守の屋敷があった辺り)に住んだ。服部屋敷の正確な場所は現在も判明していないが、正成晩年の屋敷及び安養院の場所については一般的には現在の清水谷公園周辺であったと推測されている。 麹町で生まれ育った随筆家の白洲正子は著書「鶴川日記」で、服部半蔵の屋敷の場所について「麹町四丁目の南側にあり、そのあたりの台地を半蔵山と称した」と記し、地名研究家の本間信治は著書「消えてゆく東京の地名」の中で「井伊氏の屋敷は半蔵山ともいい、もと服部半蔵の組屋敷があった」と記している。これらの場所は概ね正成の屋敷の推定地と一致しているが、屋敷や半蔵山の詳細な場所は不明である。

半蔵門から始まる甲州街道は甲府へと続いている。甲州街道沿いの麹町周辺には徳川御三家や親藩屋敷、旗本の屋敷をはじめ、服部半蔵の屋敷と家臣の屋敷、伊賀同心らの屋敷が配置されていた。さらに江戸時代の甲府藩は親藩や譜代が治めており、享保3年(1718年)に柳沢吉里が大和郡山に国替えになってからは天領となって甲府城代が置かれた。甲州街道は浸水被害を受けにくい安全な尾根道に作られており、江戸城に直結する唯一の街道であると共に江戸からの出陣・江戸への敵の侵入を阻止するための重要な軍事街道でもあった。また、将軍家に非常事態が起こった際に江戸を脱出するための要路に想定されていたといわれる。現在では半蔵門は江戸城の非常口や裏門であるという説が一般的であるが、甲州街道が江戸城に直結する街道の中で最も安全で強固に守備されている事から本来は正門であったとする説もある。服部正就の改易後、伊賀組は江戸城内(大奥、中奥、表等)を警護し、甲賀組は江戸城外の門を警護していたという。

「鬼半蔵」の逸話

  1. ある時の陣中にて、正成を召し出した家康が「その方の働きは誠に鬼槍である」と評したところ、渡辺半蔵が「私の働きはいかにご覧になられたのか」と言った。家康は「その方の働きは槍半蔵である」と答えたので、正成と守綱の両人は異議なく家康の御前を退いたという。
  2. 城攻めの際、正成の五字の旗指物を見た敵方より「五の字の指物、鬼半三」と毎度呼ばれたので、鬼半三と称するようになったという。

服部半蔵 忍者と思っていましたが武将だったのですね。勉強になりました。まだまだ間違って覚えてしまった歴史があるのでしょう。気づいたらまたアップします。

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