2代目服部半蔵 正成

服部半蔵 2代目の正成について調べてみました。ウイキペディアには以下の記述がありました。

服部 正成(はっとり まさなり/まさしげ)は戦国時代から安土桃山時代にかけての三河の武将。通称は半蔵(はんぞう)で、服部半蔵の名でよく知られている。

松平氏(徳川氏)の譜代家臣で徳川十六神将、鬼半蔵の異名を取る(なお、同じ十六神将に「槍半蔵」と呼ばれた渡辺守綱がいる)。実戦では、家康より預けられた伊賀衆(伊賀同心組)と甲賀衆を指揮していた。

父の保長は伊賀国の土豪で、北部を領する千賀地氏の一門の長であった。当時の伊賀には服部氏族の「千賀地」「百地」「藤林」の三家があったが、狭い土地において生活が逼迫したため、保長は旧姓の服部に復して上洛。室町幕府12代将軍・足利義晴に仕える事となる。その時、松平清康が三河国を平定し将軍に謁見するべく上洛した折り、保長と面会して大いに気に入り、その縁で松平氏に仕えることになったという。

伊賀国予野の千賀地氏を正成の一族とするのは誤りで、阿拝郡荒木の服部半三正種の子とするのが正しいとする説がある。また、保長を服部民部の子「守佐」であると記し、名を「石見守半蔵正種、浄閑入道保長、法名道可」とする史料も存在する。千賀地氏城の伝承においては、上記とは逆に将軍に仕えていた保長が伊賀に戻り、千賀地氏を名乗ったとされ、その子である正成と徳川家康の接点が無い。三河へ移った後の保長の記録は少なく墓所などは現在も判明していないが、大樹寺に縁があったとされ、同寺過去帳には息子である久太夫の名がみられると共に、家伝においても正成は幼少期を大樹寺で暮らしたと記されている。 正成は父の跡目として服部家の家督を継ぎ、徳川家康に仕えて遠江掛川城攻略、姉川の戦い、三方ヶ原の戦いなどで戦功を重ねた。

一般的に「伊賀忍者の頭領」の印象が強い正成であるが、彼自身は徳川家の旗本先手武将の一人であり、伊賀国の忍者の頭領ではない。 徳川配下の将として名を現した後の働きも忍者のそれとは異なり、槍や体術を駆使し一番乗り・一番槍などを重要視した武功第一のものが多い。しかし、いくつかの合戦において伊賀者や甲賀者と行動を共にするほか指揮官として忍びを放ち探査や工作をさせた記録も残るため、正成の生涯の多くに伊賀・甲賀出身者や忍びの者達が関わっていたであろう事が推察される。

生涯

天文11年(1542年)、服部保長の五男あるいは六男として三河国伊賀(現愛知県岡崎市伊賀町)に生まれた。出生地は伊賀八幡宮の北隣、明願寺付近とみられる。築城時期は不明であるが、明願寺の一帯には大草松平家の松平康安が築城した伊賀城があった。また、岡崎城出仕の頃の正成の屋敷は現在の岡崎市康生通南1丁目付近であったといわれる

天文17年(1548年)、6歳の正成は大樹寺へ預けられた。幼い頃より筋骨逞しく力の強い子供であったという。しかし3年後の天文20年(1551年)には出家を拒否し大樹寺から失踪する。正成は親元へ戻らず兄達の援助で暮らしていたが、その後7年間、初陣とされる宇土城攻めまでの消息は不明とされる

主な戦歴と逸話

弘治3年(1557年)、16歳の時に三河宇土城(上ノ郷城)を夜襲し戦功を立てた際、徳川家康から盃と持槍を拝領したという

この戦につき、史料中の正成についての記述は永禄5年の鵜殿合戦(上ノ郷城合戦)における甲賀衆の働きに酷似している事や、正成が討ち取ったとする城主の名が不明である事から、どのような戦であったか詳細は判明していない。しかし、この時に拝領した槍をその後の合戦で使用していることから、宇土城に関わる何らかの戦に参加し戦功があったとみられる。

永禄3年(1560年)の桶狭間の合戦以降、家康が三河統一に着手した時期には、正成は渡辺守綱と並び徳川家臣団の旗本馬廻衆に所属していたという

永禄6年(1563年)、三河一向一揆の際、正成は一向宗であったが家康への忠誠を誓い、一揆勢を相手に戦った

永禄12年(1569年)の掛川城攻めでは渡辺守綱、内藤正成、本多重次、榊原忠政らと共に戦っている

元亀元年(1570年)、姉川の戦いにおいて正成は姉川堤における一番槍の功名を上げた。また、偶然出会った浅井の兵数十人に「自分も浅井方であるから共に退却しよう」と偽り、討ち取る機会を伺っていたところ、通りかかった弟の半助から「その敵を討ち取れ」と声をかけられて怪しまれたため、敵兵の主人と数人を倒して半助に首を取らせた。この戦で正成は若い将兵の後見も任されていたという

元亀6年(1572年)、三方ヶ原の戦いで正成は先手として大須賀康高の隊に配属され一番槍の功名を上げた。しかし徳川軍は大敗し、正成は大久保忠隣、菅沼定政らと共に家康を守り浜松城を目指した。この時正成は顔と膝を負傷していたが、家康の乗馬に追いついた敵と格闘し撃退している。浜松城へ帰還した際には、敗戦に狼狽する味方を鼓舞するため一人で城外へ引き返し、敵と一騎打ちのすえ討ち取った首を手に城内へ戻った。戦功により正成は浜松城二の丸に召し出され、家康から褒美として平安城長吉の槍を含む槍二穂を贈られ、また伊賀衆150人を預けられた

天正2年(1574年9月)、武田勝頼の遠江出陣の際には、氾濫した天竜川を渡ろうとした板垣信通の家臣や、浜松城下にて刈田を行おうとした山県昌景配下の小菅元成らへ攻撃を加えている

天正3年(1575年)、長坂血鑓九郎信政の娘を正室に迎える

同年夏、高天神城開城の後、正成は大須賀康高の大須賀党組へ配属され、高天神城攻めに参加する。大須賀党組には塙団右衛門、井上半右衛門、松下嘉兵衛(嘉平次)、鉄砲名人の鳥居金五郎、忍び名人で「大鼠」と呼ばれた神谷権六、「槍半蔵」渡辺守綱などが属していたという。

天正4年(1576年)、長坂信政女子との間に長男の正就が出生する

天正7年(1579年)、家康の嫡男信康が織田信長に疑われ遠江国二俣城で自刃に追いやられた際は検使につかわされた。この時、信康の介錯を命じられたのは渋川四郎右衛門であったが、渋川は「三代相恩の主の御首に刀は当てられぬ」とその日の夜に出奔してしまった。そのため正成が俄かに介錯を命じられたが、信康のあまりのいたわしさに首を打ちかね、刀を投げ捨て落涙し倒れ伏したため、正成に代わり天方通綱が介錯を行った。報告を受けた家康は「さすがの鬼も主君の子は斬れぬか」と正成をより一層評価したという。信康介錯の逸話については『三河物語』に描写されており、正成は信康の側仕えだったという説もあるが、信康とはほとんど面識が無く、この逸話は後世の創作であるとする説や、服部半蔵ではなく渡辺半蔵が介錯したという説もある。近年では信康の切腹は、家康と信康の対立が原因とする説が出されている。また「三代相恩の主の御首に刀(刃)は当てられぬ」という渋川四郎右衛門の言葉については、正成の言葉として記載されている場合が多い。

天正8年(1580年)、次男の正重が出生する。その後、三男の正廣が出生(時期不明)し、のちに正廣は出家したという

同年、高天神城攻めのため浜松城下に駐留する織田家の援将、大垣卜仙(卜全)の家人と徳川家臣の家人が些細な事で衝突する(但し、大垣卜仙(氏家直元)は1571年(元亀2年)の長島一向一揆攻めで討死しており、この時期は子の氏家直昌が大垣城主となっている)。浜松にいた正成は頼まれて加勢に加わるが、正成を報復で襲った大垣家人らを服部家で迎え撃った結果、大垣家・服部家の双方に複数の死者を出す事となった。大垣家が織田家臣である事を重く見た家康は、逃げるつもりのない正成を説得して牢人とし、妻子ともども浜松から逃がすと、別人の首を「正成の首」に仕立て大垣家に差し出したという。この事件の後、伊賀越えまでの2年間の正成の消息は不明である。

2代目服部半蔵 正成についてはまだまだ興味深い話があります。次回にも正成についてアップします。

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