2月24日について調べてみました。そしたら・・・
1184年(元暦元年1月11日) – 源義仲が征東大将軍に任じられる。
源義仲???木曽義仲のことかな?木曽義仲って征夷大将軍だっけ?よく見たら征東大将軍ってかいている。征東大将軍について調べてみました。ウイキペディアには以下の記述がありました。
征東大将軍(せいとうたいしょうぐん)は、かつて中国と日本で用いられた将軍の称号の一つで東夷を征する将軍の意であるが、常に任命されるとは限らない。
アジア諸国における征東大将軍
高句麗
高句麗の君主は中国の南朝より「征東将軍」(413年、東晋)、「征東大将軍」(417年、南朝の宋)、北朝より「征東将軍・領護東夷中郎将」(492年、北魏)などの称号を受けた。
倭国王
421年から478年にかけて、倭の五王たちは中国南朝の宋から「倭国王」の称号とともに「安東将軍」号を、438年には王族の倭隋ら臣下13人が「平西将軍・征虜将軍・冠軍将軍・輔国将軍」などの将軍号を受けた。倭王武は479年、南朝の斉より「鎮東大将軍」号を受け、天監元年(502年)の4月、南朝の梁より「征東大将軍」号を受けた。
百済王
歴代の百済王は372年以来、中国南朝より「鎮東大将軍」に任命されていたが、天監元年(502年)の4月、百済王余大が「征東大将軍」号を受けた。
日本における征東将軍
律令制下の日本では、平安時代初めに蝦夷征討の総司令官として、節刀を授けられ全権を委任された征東将軍・征東大将軍が臨時に任命された。延暦3年(784年)には鎮守将軍だった大伴家持が征東将軍に任命され、延暦7年(788年)には紀古佐美が征東大将軍に任じられた。
その後、天慶3年(940年)に承平天慶の乱に際して藤原忠文が、平安時代末期治承・寿永の乱の際、寿永3年(1184年)には源義仲が征東大将軍に任命されたが、蝦夷征討を目的としたものではない。
足利尊氏
建武2年(1335年)に、信濃国で北条高時の遺児北条時行を擁立した北条氏残党の反乱である中先代の乱が起こり、鎌倉を一時占拠するに至った。足利尊氏は討伐を願い出て、後醍醐天皇に征夷大将軍の官職を望んだが許されず、結局、天皇の許可を得ないまま軍勢を率いて鎌倉へ向かった。天皇はやむなく征東将軍の号を与えた。尊氏は時行を駆逐して、鎌倉を奪還することに成功した。
征夷大将軍についても調べてみました。
征夷大将軍(せいいたいしょうぐん、旧字体:征夷大將軍)は、朝廷の令外官の一つである。「征夷」は、蝦夷を征討するという意味。鎮守将軍と同格の栄誉職である。
概要
飛鳥時代・奈良時代以来、東北地方の蝦夷征討事業を指揮する臨時の官職は、鎮東将軍・持節征夷将軍・持節征東大使・持節征東将軍・征東大将軍などさまざまにあったが、奈良末期に大伴弟麻呂が初めて征夷大将軍に任命された。征夷大将軍(征夷将軍)の下には、征夷副将軍・征夷軍監・征夷軍曹、征東将軍(大使)の下には、征東副将軍(副使)・征東軍監・征東軍曹などの役職が置かれた。
大伴弟麻呂の次の坂上田村麻呂は阿弖流為を降して勇名を馳せたが、次の文室綿麻呂が征夷将軍に任ぜられた後は途絶えた。平安中期に藤原忠文が征東大将軍に任ぜられたが、これは平将門討伐のためであって、蝦夷征討を目的としたものではなかった。なお従来、源義仲が平安末期、征夷大将軍に任ぜられたとされてきたが、後述のとおり、義仲が任命されたのは征東大将軍である。
平氏政権・奥州藤原氏を滅ぼして武家政権(幕府)を創始した源頼朝は「大将軍」の称号を望み、朝廷は征夷大将軍を吉例としてこれに任じた。以降675年間にわたり、武士の棟梁として事実上の日本の最高権力者である征夷大将軍を長とする鎌倉幕府・室町幕府・江戸幕府が、一時的な空白を挟みながら続いた。慶応3年(1867年)徳川慶喜の大政奉還を受けた明治新政府が王政復古の大号令を発し、征夷大将軍職は廃止された。なお、この3幕府の間、源頼朝から徳川慶喜に至るまで将軍の官位は従一位~正二位であり、補佐役にあたる執権、管領、大老はおおむね従四位どまりであった。これは現代の叙勲では首相と本省課長、朝廷の役職でもそれに相当する格差である。将軍は補佐役以下に実権を完全掌握されて傀儡でしかなかった例も少なくないが、それでも形式上の権威は圧倒的であった。
使命を示す役職 異民族と征伐する司令官 時代とともにもともとの使命からかけ離れてゆく もともと征東も征夷も同じような役職だったようですが、時代とともに違ってくる。そのうち幕府の将軍=征夷大将軍=日本の大将 不思議な感じ・・・
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