- 1567年2月8日(永禄9年12月29日) – 松平家康が徳川姓を朝廷から許されて徳川家康と改名し、従五位下・三河守に叙任される。
いまNHKの大河ドラマは徳川家康が主人公の「どうする家康」が放送されています。むかしのひとは苗字も名前も変わってしまう人がたくさんいます。豊臣秀吉は「木下藤吉郎」「羽柴秀吉」その後、関白・太政大臣となり、天正14年(1586年)9月9日朝廷から豊臣の姓を賜った。今の時代で考えるとなんだか変な感じがします。もともと名家の出生の人は苗字を変えることはないでしょうが、そうではない人は朝廷から重職を任ぜられたら姓を賜ることがあったのですね。
話しは家康に戻します。家康について調べてみます。ウイキペディアに以下の記述がありました。
徳川 家康(とくがわ いえやす、旧字体: 德川 家康)は、室町時代後期(戦国時代)から江戸時代初期の日本の武将、戦国大名。江戸幕府初代征夷大将軍。安祥松平家5代当主で徳川家や徳川将軍家、徳川御三家の始祖。織田信長との織徳同盟を基軸に勢力を拡大。豊臣秀吉の死後に引き起こした石田三成との関ヶ原の戦いに勝利し、豊臣氏に対抗しうる地位を確立。1603年に後陽成天皇により征夷大将軍に任じられ、278年間続く江戸幕府を開いた。関ヶ原の戦いの後も、領地を削減されたとはいえ豊臣氏(豊臣秀頼)は一定の力を有していたが、方広寺(京の大仏)に納める梵鐘の鐘銘を巡る一連の紛争である方広寺鐘銘事件を契機として豊臣方と開戦し(大坂の陣)、1615年に大坂夏の陣により豊臣氏を滅ぼし、全国支配を磐石なものにした。三英傑の1人である。ちなみに徳川家康とは短縮名であり、『徳川次郎三郎源朝臣家康』が正式名である。これを区分すると、「徳川」が名字、「次郎三郎」が通称、「源」が姓(かばね)、「朝臣」が家格を表す姓、「家康」が名前となる。
概要
家系は三河国(現在の愛知県東半部)の国人土豪・松平氏。幼名は竹千代。通称は次郎三郎、後に蔵人佐。諱は今川義元より偏諱を受けて元信(もとのぶ)、次いで元康(もとやす)と名乗るが、今川氏から独立した際に家康と名乗る。
近衛家に系図作成を依頼し、勅許の上、永禄9年12月29日(1567年2月18日)に徳川氏に改姓。本姓は源氏や藤原氏を称し、豊臣政権では豊臣氏を称した形跡もあるが、天正16年(1588年)以降に源氏を再び称している。
幼少期を織田氏ついで今川氏の下で人質として過ごす。永禄3年(1560年)、桶狭間の戦いでの今川義元の討死を機に今川氏から独立して織田信長と同盟を結び、三河国・遠江国に版図を広げる。
信長が天正10年(1582年)に本能寺の変において死亡すると天正壬午の乱を制して甲斐国・信濃国を手中に収める。
信長没後に勢力を伸張した豊臣秀吉と小牧・長久手の戦いで対峙するが、後に秀吉に臣従。小田原征伐後は後北条氏の旧領関東への転封を命ぜられ豊臣政権下で最大の領地を得る。秀吉晩年には五大老に列せられ大老筆頭となる。
秀吉没後の慶長5年(1600年)に関ヶ原の戦いにおいて西軍に勝利。慶長8年(1603年)に征夷大将軍に任命され武蔵国江戸に幕府を開く。慶長20年(1615年)に豊臣氏を滅亡させ(大坂の陣)、日本全国を支配する体制を確立。安土桃山時代が終結した。
家康がその礎を築いた江戸幕府を中心とする統治体制は後に幕藩体制と称され、264年間続いた江戸幕府の祖として「神祖」・「烈祖」などとも称された。
子どものころにも何度か名前が変わるのもこの時代では当たり前の事だったのですね。今ではとても考えられないですね。徳川家康についてはまだまだ面白い記述があります。次回にはそのあたりをアップします。
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