4月30日

2019年4月30日は平成最後の日となりました。翌日2019年5月1日から令和が始まりました。

平成の時代

平成は、日本の元号の一つ。

昭和の後、令和の前。大化以降247番目の元号。明仁(第125代天皇)の在位期間である1989年(平成元年)1月8日から2019年(平成31年)4月30日まで。「元号法(昭和54年法律第43号)」に基づき定められた最初の元号。

ここでは日本史の時代区分上、グレゴリオ暦(西暦)の20世紀から21世紀にわたった平成時代(へいせいじだい)についても記述する。

1989年(昭和64年)1月7日午前6時33分、昭和天皇の崩御に伴いその皇太子であった明仁親王が第125代天皇に即位した。この皇位の継承を受け、同日、1979年(昭和54年)に制定された「元号法(昭和54年法律第43号)」に基づき「元号を改める政令(昭和六十四年政令第一号)」が公布・施行され、その翌日を「平成元年1月8日」に改めることで改元された。これは、1947年(昭和22年)に施行された日本国憲法のもとでの最初の改元だけでなく、日本の元号史上初めて、法令に基づいて改元が行われたことである。なお、「元号を改める政令(昭和六十四年政令第一号)」は「昭和64年」において最初で最後の政令となった。

なお、崩御を前提とした手続きは事前に行えないため、改元の際は崩御当日に「元号選定手続について(昭和54年10月23日閣議報告)」に基づいた正式な手続きに入り、翌日に改元が行われた。崩御当日に電話で正式な委嘱を受けた各界の有識者による「元号に関する懇談会」は約20分間意見交換しただけで、重々しい雰囲気の中で慌ただしく新元号は決められたという。ただし、水面下で準備は進められており、昭和天皇が吐血し容体が悪化した1988年(昭和63年)9月に、元号は最終候補の3案に絞り込まれていた。

内閣内政審議室は、昭和天皇崩御の日(1月7日)の早朝、10ほどの候補から最終的に「平成へいせい」「修文しゅうぶん」「正化せいか」の3案に絞り、内閣総理大臣竹下登(竹下内閣)の了承を得た。その日の午後、「元号に関する懇談会」(以下の8人の有識者で構成)と、国会内の常任委員長室に待機していた衆議院正副議長(原健三郎・多賀谷真稔)及び参議院正副議長(土屋義彦・瀬谷英行)に「平成」「修文」「正化」の3つの候補を示し、意見を求めた。

その懇談会の席上で、当時の内閣内政審議室長であった的場順三が、とっさに、明治以降の元号のアルファベット頭文字を順に並べ、「M(明治)・T(大正)・S(昭和)の後はHが据わりが良いでしょう」と言った。その後に開かれた全閣僚会議でも「平成」で意見が一致し、同日14時10分から開かれた臨時閣議において新元号を正式に「平成」と決定した。14時36分、小渕恵三内閣官房長官が記者会見で発表した。

「平成」提案に関する事項

最終候補の3案の一つであった「平成」を提案したのは、東洋史学者の山本達郎(東京大学名誉教授)である。

当時、内閣内政審議室長として新元号選定に関わった的場順三[2]によると、元号の最終候補3案は極秘裏に委嘱していた山本、目加田誠、宇野精一の3氏の提案(目加田が「修文」、宇野が「正化」を提案したことを後に認めている)によるものだという。『文藝春秋』での佐野眞一(作家)の取材に対して、的場は「元号は縁起物であり改元前に物故した者の提案は直ちに廃案になる」と述べ、改元前に物故された諸橋轍次、貝塚茂樹、坂本太郎らの提案はすべて廃案になったとしている。この取材以前では竹下内閣当時の内閣官房副長官(事務担当)であった石原信雄も物故者の案はボツになる旨の証言をしていた。一方で、「平成」という言葉を知っていたと目され、的場が新元号選定に関わる前に物故していた諸橋や安岡正篤らの案の一覧表を竹下総理ほか政府関係者が見たという政府関係者の証言もあり、これは物故した学者の考案した元号案は除外して廃案になるという石原や的場の証言と食い違う。また、封をしたまま三原朝雄総理府総務長官が大平正芳総理に提出し、そのまま金庫に納められたという資料の所在を竹下総理は来訪した三原から聞いたのか不明となる。

的場内閣内政審議室長は前任者から引き継いだ候補考案者3人のうち2人が相次いで亡くなったので、代わりの学者を秘密裏に探すため文部省職員と2人だけで選定の準備作業に入ったが、既に天皇の容態悪化を受けてマスコミの報道が過熱しており、学者の自宅前には多数の記者が張り込むなどしていたため、本人が参加する学会に紛れ込んでコンタクトを取ったという。

竹下内閣当時の内閣官房副長官(政務担当)であった小沢一郎は、「(竹下)総理のところに上がってきた案は「平成」と「化成」の二つであり、総理と小渕(官房長官)さんと僕(小沢)の3人で「平成」を選んだ」ことを証言している。

竹下首相が総理を降りた後、1990年(平成2年)1月に行った講演の際には元号法制定以降に委嘱した学者の中に陽明学者の安岡正篤がいた旨を述べたとされ、そこから「平成」は安岡が発案した説が広まった。しかし、安岡も昭和天皇の崩御前に物故しているため安岡の発案ということは有り得ない。的場は「実際、『平成』の考案者は安岡正篤氏という誤った説も広まっていたので、歴史の真実を歪めないためにも、新元号選定の経緯を明かすようになりました」と述べている。竹下は首相退任後に記した著書の中で、「平成」は現存されている立派な学者の考案である旨を証言している一方で、首相退任後も竹下の私邸に通っていた共同通信社の後藤謙次記者が「考案者は安岡氏ではないか」という話を振ると、「たとえ死んでも、違う人に(案を)出してもらう手もあるわな」と竹下がぽつりと漏らしたという報道もある。渡部恒三も「『平成』の原案をつくったのは安岡先生だと思う。まだ昭和天皇が亡くなる前だから、あんまりおおっぴらにできないけど、竹下と小渕と俺の三人だけで相談して、あの先生に元号を作ってくれ、とこっそり頼みに行ったことがある」と証言している。ただし、前述の佐野の取材の中に、「竹下の元秘書の上野(治男)は、安岡の晩年の秘書から、「平成」は安岡先生の原案ではない、と聞いている。」という有力な反論もある。

典拠

新元号の発表時に小渕内閣官房長官が述べた「平成」の典拠は漢籍で、以下の通りである。※漢文中の太字箇所から元号が採られた。

『史記』五帝本紀 帝舜內
うちたひらかにそとる)
『書経(偽古文尚書)』大禹謨地
たひらかにてんる)

「平成」は「国の内外、天地とも平和が達成される」という意味である日本において元号に「成」が付くのはこれが初めてであるが、「大成」(北周)や「成化」(明)などの外国の元号や13代成務天皇の諡号には使用されており、「平成」は慣例に即した古典的な元号といえる。

江戸時代最末期、「慶応」と改元された際の別案に「平成」があり、出典も同じ『尚書(書経)』大禹謨からとされている。

なお、「平成」の決定の際に漢学者らからは「同じ記述がある『春秋左氏伝』から引用すべきだったのではないか」とか、「出典箇所(書経の該当項目)は偽書の偽古文尚書であり、信用性に欠ける」という意見もあった。

 

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