8月27日

男はつらいよの日/寅さんの日 1969年8月27日に映画シリーズ第1作目が初公開されました。それを記念して「男はつらいよの日/寅さんの日」とされたそうです。男はつらいよについては、ウイキペディアには以下の記述がありました。

概要

テキ屋稼業を生業とする「フーテンの寅」こと車寅次郎が、何かの拍子に故郷の柴又に戻ってきては、何かと大騒動を起こす人情喜劇で、毎回旅先で出会った「マドンナ」に惚れつつも失恋するか身を引くかして、成就しない。寅次郎の恋愛模様を日本各地の美しい風景を背景に描く。

当初は1960年代半ばから、東映「ヤクザ映画」のパロディとして企画された。安藤昇が助監督時代の山田洋次に『男はつらいよ』の原案を伝えたという説がある。高倉は山田監督による『幸福の黄色いハンカチ』『遥かなる山の呼び声』に出演。この両作品で渥美清、倍賞千恵子とも共演している。

作品は1968年(昭和43年)- 1969年(昭和44年)に、フジテレビが制作・放送したテレビドラマが最初で、柴又の帝釈天が舞台ではなかった。このテレビ版はヒットしたが、最終話でハブ酒を作ってひと儲けしようとした寅次郎が、奄美大島にハブを取りに行って逆にハブに咬まれ、毒が回り死んだという結末に視聴者から多数の抗議が殺到して映画化につながった。

映画シリーズは、松竹によって1969年8月27日に第1作が公開され、1995年(平成7年)までに渥美が参加した48作が、1997年(平成9年)と、2019年(令和元年)に特別編が公開された。

山田洋次が全作の原作・脚本を担当。当初2作で終わる予定で、第1作の観客動員数は54万3000人と微妙な成績でぎりぎり合格点という程度であったが、シリーズ映画を切望していた会社方針でさらなる続編が決定。第3作は森崎東が、第4作を小林俊一が監督を行い、山田は第3作と4作はもういいと思い脚本のみ手掛けた。第5作から山田が再び監督しシリーズを完結させる予定であったが、それまでトントンの線で横ばい状態であった観客動員が一挙に5割増しとなり、これを受けて再続編が決定した(それでもシリーズ平均の観客動員165万の半分にも及ばない72万人という小ヒットである)。そのため、第5作は、続編製作の保証がない状態で作られた第1作、山田が当初2部作構想としていた第2作とともに、ある種の完結感を持ってしめくくられている。

以降、尻上がりで全作品がヒット、特に第8作以降は飛躍的な大ヒットで松竹のドル箱シリーズとなり、30作を超えた時点で世界最長の映画シリーズ(作品数)としてギネスブック国際版にも認定された(年数では『007』シリーズの方が長い)。山田は全50作完結を構想し、第49作『寅次郎花へんろ』準備中に渥美の死去により、1995年(平成7年)に公開された第48作『男はつらいよ 寅次郎紅の花』をもって終了(打ち切り)になった。その後、ファンからのラブコールが多かったとのことで、『男はつらいよ 寅次郎ハイビスカスの花』を再編集し、新撮影分を加えた『男はつらいよ 寅次郎ハイビスカスの花 特別篇』が1997年(平成9年)- 1998年(平成10年)に公開された。1972年(昭和47年) – 1985年(昭和60年)の14年間はきっちりお盆と年末年始の年2回公開が守られており、多くの人が帰省休みを取るこの時期を彩る日本の風物詩とまでいわれた。なお、通常の「正月映画」が12月3週目あたりから公開されるのに対し、同シリーズは年末ぎりぎりの公開として初冬の風景をおりこんでいる。また、前述の冬公開から「寅さん」は冬の季語にもなっている。

渥美が撮影に参加した映画シリーズ48作の配給収入は464億3000万円、観客動員数は7957万3000人 を記録。ビデオソフトは1996年7月末までにセル用とレンタル用の合計で85万本が流通している

1969年(昭和44年)の映画第1作公開から50周年に当たる2019年(令和元年)12月27日には、旧作の名場面に新撮部分を加えた第50作『男はつらいよ お帰り 寅さん』が公開。2018年(平成30年)9月6日に誕生50周年を迎える来夏頃に“50作目”となる新作映画を公開することが6日、都内で行われた『50周年プロジェクト』会見で発表された。“22年ぶり”となる新作には、シリーズ全49作を4Kデジタル修復した映像と、新たに撮影される映像が使用される。あわせて、2年をかけて4Kデジタル修復されたシリーズ全49作のBlu-ray Disc発売と全国劇場公開、東京都葛飾区柴又の寅さん記念館のリニューアルオープン、山田洋次監督の小説『悪童 小説 寅次郎の告白』の刊行、BSテレ東の企画『やっぱり土曜は寅さん!』による全49作のテレビ放送、などが行われた。

フーテンの寅さんは子供のころから知ってはいました。しかし、映画を見たことはほとんどありませんでした。父は浅草生まれで、葛飾区堀切に住んでいました。映画の舞台となっている柴又あたりは懐かしそうに見ていました。自分がわかいころにそのあたりがどのようであったかを教えてくれたことがあったように記憶していますが、興味がなかったので全く覚えていません。今から思えばもったいない話です。

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