ローマ帝国の初代皇帝のアウグストゥスが紀元前63年9月23日 誕生しました。
ネットで彼について調べてみました。ウイキペディアには以下の記述がありました。
アウグストゥス(羅: Augustus, 紀元前63年9月23日 – 紀元14年8月19日)は、ローマ帝国の初代皇帝(在位:紀元前27年 – 紀元14年)。
志半ばにして倒れた養父カエサルの後を継いで内乱を勝ち抜き、地中海世界を統一して帝政(元首政)を創始、パクス・ロマーナ(ローマでの平和)を実現した。
「アウグストゥス」はラテン語で「尊厳ある者」を意味しており、欧米諸国において「8月」(英語: August)の語源になっている。アウグストゥスの当初の名前はオクタウィウス (Octavius) であるが彼は成長とともに幾度か名前を変えており、混乱を避けるために後代の歴史家は彼をオクタウィアヌス (Octavianus) と呼んだ。オクタウィアヌスとは「オクタウィウスだった者」という意味であって、これはオクタウィウスがカエサルの死亡後自身をカエサルと自称し始め、元老院はそこからオクタウィアヌスの名前を用い始めたとも言われている。その為オクタウィウス自身がオクタウィアヌスの名を用いたことはない。
「ローマ皇帝」の誕生
共和制復帰宣言から3日後の1月16日、かつてユリウス・カエサルの副官であったルキウス・ムナティウス・プランクスが、オクタウィアヌスにアウグストゥス(尊厳者)の称号を贈ることを提案し、元老院は満場一致で国の全権を掌握するよう懇請した。オクタウィアヌスは数度にわたり辞退した上でこれを承諾し、この日以降正式にインペラトル・カエサル・アウグストゥス (Imperator Caesar Augustus) と名乗るようになった。慎重なアウグストゥスことオクタウィアヌスは、すでに政敵がいないにもかかわらず、一度権力を返還し、元老院によって再び譲渡されるという形式をとったのである。これにより共和制は、元老院議員たちには気付かれないうちに(オクタウィアヌスが巧妙に偽装しつつ)終焉し、ローマは帝政へと移行した。初代ローマ皇帝アウグストゥスの誕生である。なお、アウグストゥスに始まる帝政ローマの前期の政治体制は、後のディオクレティアヌスに始まる「ドミナートゥス (専制君主制)」と区別して「プリンキパトゥス (元首政)」と呼ばれている。
アウグストゥスの創始した帝政(元首政)は、カエサルのような非常大権の獲得といったイレギュラーなものではなく、あくまでも従来から存在するレギュラーな公職、つまり執政官職とプロコンスル職を兼任するといったものであった。すなわち、臨時職として位置づけられすでに廃止されていた独裁官の官職を復活させるような直接的なことはせず、また共和制の枠を超える新たな地位を創設することも行わなかったのである。アウグストゥス自身、「私は権威において万人に勝ろうと、権力の点では同僚であった政務官よりすぐれた何かを持つことはない」(『神君アウグストゥスの業績録』34)と述べている。しかし、この執政官職やプロコンスル職の兼任こそがローマ帝国全土を支配する政治的・軍事的根拠となり、あわせて「アウグストゥス」の尊称授与といった権威が備わったため、この紀元前27年の取り決めこそアウグストゥスにとってローマ皇帝権力が確立する「第一段階」となったのである。このようなことから、紀元前27年にアウグストゥスが初代ローマ皇帝に就任したと後世いわれるようになった。
紀元前27年秋から紀元前24年にかけて西方の再編に着手、紀元前23年にローマに帰還した。同年、連続して就任していた執政官を辞任する代わりに、1年限りの護民官職権を付与され、以後は例年更新されることになった。アウグストゥスはこの護民官職権のうち身体不可侵権については既に保持していたが、法案に対する拒否権等、残余の権限がこのとき与えられたのである。さらに、プロコンスル命令権が上級プロコンスル命令権(インペリウム・プロコンスラレ・マイウス)に強化されたため、元老院属州でも権限施行が可能となり、この結果、皇帝権力はより強固なものとなった。これが皇帝権力確立の「第二段階」である。
表面上はともかく実質的には、アウグストゥスは終始唯一のローマの統治者であり続けた。そして彼の後継者達もアウグストゥスの称号を名乗り続ける事により、帝政は既成事実化していく。アウグストゥスは、インペラトルやカエサルなどとともにローマ皇帝を示す称号の一つになっていった。
紀元前22年からは東方の再編に着手した。紀元前19年に帰還し執政官命令権(インペリウム・コンスラレ)を得た。紀元前18年には、ユリウス姦通罪・婚外交渉罪法、ユリウス正式婚姻法を制定し秩序の安定化と道徳の確立を試みた。なお、紀元前12年にアグリッパ、紀元前8年にマエケナスと相次いで長らくの腹心が死去した。紀元前7年、それまでポメリウムの内外程度しか区分がなかった首都ローマを、14の行政区に分割して各区の行政上の責任を明確にした[8]。
晩年と後継者問題
紀元前2年、元老院より国家の父 (pater patriae) の称号が贈られた。
アウグストゥスは権威を確立し、権力が磐石になると後継者問題に取り組んだ。その際、アウグストゥスは自分の血筋にこだわっていたとされ、妻リウィアの前夫との子という血のつながりはないが近い位置にあり、能力的には卓越していたティベリウスが「最後の保険」的な扱いをされ続けた末に、「正統な後継者」ゲルマニクスの中継ぎとして後を継ぐことになる。当初、姉オクタウィアの子マルケッルスに目をつけ、前妻との間にもうけた一人娘のユリアを嫁がせた。しかし、紀元前23年にマルケッルスが死亡すると、ユリアを腹心アグリッパと再婚させた。この結婚は多くの孫をアウグストゥスにもたらした。そのうちガイウス・カエサル、ルキウス・カエサルの2人を養子とし後継者候補とした。しかし、この2人も夭折した。紀元4年、ガイウス・カエサルが没したため、同年6月27日に、ユリアとアグリッパの末子アグリッパ・ポストゥムスと、ティベリウスを養子とした。同時にティベリウスに甥ゲルマニクス(アウグストゥスと血が繋がる)を養子とさせ、ティベリウスの次まで定めさせた。後に、アグリッパ・ポストゥムスは粗野で放蕩な性格から追放され、軍事・政治ともに実績があるティベリウスが明確に後継者とされた。それでもアウグストゥスは崩御の直前にアグリッパ・ポストゥムスを極秘訪問したという。
胃腸を患ったアウグストゥスは、紀元14年8月19日、ポンペイ近郊のノーラの町で75歳で崩御した。最期の日、友人に「私がこの人生の喜劇で自分の役を最後までうまく演じたとは思わないか」と尋ね、「この芝居がお気に召したのなら、どうか拍手喝采を」との喜劇の口上を付け加えたといわれている。遺灰はローマ市内のアウグストゥス廟に葬られ、神格化された後にカレンダーに Augustus (= August) 、つまり8月と記された。そして暗殺されたユリウス・カエサルつまり Julius (= July) には7月が神格化されカレンダーに記されたことは有名な話である。カレンダーに記されている1月から8月までの名前は全て、神として古代に崇められた人物の名である。
人物像
- スエトニウスの「皇帝伝」によれば、アウグストゥスの背丈は約170cm ほどで均整の取れた体格の、稀に見る美男子であったという。
- 元来皇帝としては短気で残酷な側面をもっていたが、3度目の妻リウィアの影響を受け、寛大で温和な性格へと変わっていったといわれている。事実、リウィアの懇願を受けてアウグストゥスは幾度か死刑を追放に免じている。また、老境に達した頃、孫たちがかつて自分が粛清したキケロの本を読んでいるのを見つけた際、叱られるのを心配した孫たちに対し「彼は教養があった。教養があって、真に国を想う人だった。」と言った。
- アウグストゥスの権力を理解する上で何よりも重要なのは『神君アウグストゥスの業績録』で、第34章3節の「権威において万人に優越していても、権力においては同僚たちを凌駕しない」という趣旨の一文は元首制の本質を端的に述べたものである。
- ローマ史研究家のF・E・アドコックによれば「アウグストゥスはアレクサンドロス大王やカエサルのような、圧倒的な知力の持ち主ではなかった。しかしあの時期の世界は、彼のような人物こそを必要としていた」とする。カエサルのように軍団兵を前に演説を行い鼓舞し、戦場に立ち兵に剣や盾の使い方を実際に示してみせ、軍団に指令を与え戦場を差配するという才能を示すようなことはアウグストゥスにはなかった。戦闘の実際の指揮は親友にして腹心のアグリッパがとっていた。数々の勝利は彼によるところが大きいが、15年間にも及ぶ厳しいアルプス遠征はアウグストゥス自身による歴史的功績であり、今でも南仏にはアウグストゥスの業績を称えた古代のトロフィが残っている。(→Trophée des Alpes)
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