真言についてさらに調べてみました。以下の記述がウイキペディアには以下の記述がありました。
分類・定義
諸経典の中では「真言」に類義の言葉として、「密言」・「呪」・「神呪」、「心呪」、「明呪」、「陀羅尼」等があり、それぞれ語の発生と意義は異なるが通常は区別されず、仏教で用いられる呪文を「真言陀羅尼」と総称することが多い。 「真言は短い呪句で陀羅尼は長い呪句」と説明されることがあるが正しくなく本来は起源が異なるものである。 しかし、大乗興起以後は、それらは混同され区別されなくなった。 善無畏は『大日経疏』の中で、「真言」と「明呪」を区別したが、 これは成り立ちを説明したもので両社が別種のものという意味ではない。 『初回金剛頂教』では「真言」・「明呪」・「陀羅尼」はそれぞれ異なるがその差は殆ど無いと説かれており、不空は『総釈陀羅尼義讃』で、真言には一字のものから万字以上のものまであるが、「真言」・「密言」・「明」・「陀羅尼」は同一の物の異称であり、全て区別しないで良いと説明した。 これらのことから、現在では「真言」・「陀羅尼」の成り立ちや経典を研究する等の特別な場合を除いては、一般に「真言」・「心呪」・「明呪」・「陀羅尼」を区別しない 。
真言
「真言」は、サンスクリット語の「mantra」 を漢訳したものである。 最初はバラモン教の聖典である『ヴェーダ』に、神々に奉る讃歌として登場し、反復して数多く唱えることで絶大な威力を発揮すると考えられていた。後に、バラモン教に限らず不可思議力を有する呪文をことごとく「mantra」というようになった。 バラモン教や非アーリヤ系の土着の信仰の「mantra」が仏教に採り入られて、治歯・治毒・悪鬼羅刹からの護身・延命など現世利益のための「mantra」が用いられるようになった。 この「mantra」を龍樹や玄奘は、「呪文」または「神秘的な呪文」の意味で「呪」・「神呪」等と訳し、善無畏や不空は、「仏の真実の言葉」の意味で「真言」、「仏の秘密の言葉」の意味で「密言」等と訳した。 また、「maṇḍala」の訳とする説もある。
明呪[編集]
サンスクリット語の「vidyā」、パーリ語の「vijjā」を訳したもので、本来は「知識」や「学術」を指す語である。古代インドにおいて学問・科学と呪法は一体であり、病を癒すための医術や毒蛇を避ける魔術やなど凡人の知りえない神秘的な知識・呪術の意味で用いられていた。初期仏教教団は、「maṇtra」や「vidyā」を否定していたが、後に毒蛇を退散させる蛇除けの呪文(vidyā)を黙認するようになり、これが後の呪法の発展に繋がった。大乗仏教においては仏が説く真実の智慧、真実の言葉の意味で用いられ、さらに不可思議智の結晶である神秘的な呪文を指すようになった。唱えることで無明の煩悩を破除し衆生を化度するものとされ、漢訳経典では「明呪」・「明」と訳した。
ここで「五明」について追記
仏教においては、仏教内における「内(ない)の五明」と、世俗一般の「外(げ)の五明」とが区別される。
「内の五明」は、
- 声明(しょうみょう、śabda): 文法・文学
- 因明(いんみょう、hetu): 論理学
- 内明(ないみょう、adhyātma): 教理学
- 工巧明(くぎょうみょう、śilpakarmasthāna): 工芸・数学・暦学
- 医方明(いほうみょう、cikitsā): 医学・薬学・呪法
の5つ。
「外の五明」は、因明、内明の代わりに、
- 呪術明(じゅじゅつみょう): 呪術
- 符印明(ふいんみょう): 呪符・呪印
の2つが入る。
さらに「明王」について補足
明王(みょうおう、梵: विद्याराज vidyā-rāja)は、密教における尊格及び称号で、如来の変化身ともされる。
明王には女性(妃)尊もある。これを明妃(みょうひ、vidyā-rājñī)といい、チベット仏教では、男女の抱擁している尊像が多く散見される。[要出典]
語義
明王の「明」は、本来 サンスクリット語 विद्या(vidyā)で表し、「知識(ज्ञान)」「学問」を意味する一般的な名詞である。密教の文脈においては、特に仏が説いた真言、呪文のことを指し、明あるいは明呪と漢訳される。 そして「明王」という言葉は、「呪文の王者」を意味し[3]、真言の別名であるが、一般的には密教特有の尊格の意味で用いられる。
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