山鹿流兵法と山鹿素行についての検索の続きです。ウイキペディアには以下の記述がありました。
平戸藩
肥前国平戸藩では素行の庶子の山鹿高基が兵法師範に採用されて山鹿流が伝来、また弟の山鹿平馬(義昌)が家老に採用されている。山鹿流に学んだ平戸藩ならびに松浦家は、『山鹿語類』に「復仇の事、必ず時の奉行所に至りて、殺さるるゆゑんを演説して、而して其の命をうく。是れ古来の法也」とあるを論拠として「公儀の免許を得ず、徒党を組み飛び道具を以て押入るのであるから、素行の思想からすれば許すべからざる暴挙である」と元禄赤穂事件を批判している。(ただし、平戸藩邸(下屋敷)は本所にあり旧吉良邸に近く、また松浦氏は柳の間で諸大名に作法・礼儀の指南をしており、総じて吉良寄りである)。
赤穂藩
承応2年(1653年)に築城中であった赤穂城の縄張りについて山鹿素行が助言したともいわれ、これにより二の丸門周辺の手直しがなされたという説があり、発掘調査ではその痕跡の可能性がある遺構が発見されている。
しかし赤穂城は、広大な不等辺多角形で、本丸が南東に偏っており、「城は小さくまろく左右対称に作るべし」「堅固を前うしろにて致す心得のこと」という山鹿流の縄張りとは大きく異なる。
また、浅野長直は赤穂に流刑時代の素行お預かりを担当している。
創作・巷説と考察
芝居の赤穂浪士といえば「山鹿流陣太鼓」(越後流の働事太鼓)が有名だが、実際には「一打ち二打ち三流れ」という「山鹿流の陣太鼓」というものは存在せず物語の中の創作である。また、大石が「ダンダラの中に黒右二つ巴(赤穂大石氏家紋)」が描かれた薄い平太鼓を叩いているが、山鹿流の兵学にタンバリンのような平太鼓の記載はない。さらに、大将が自ら家祖の紋を撥にて叩くのは不吉である。
石岡久夫は菅谷政利が山鹿流を学んだとしているが、赤穂市史編纂室は疑問視し、菅谷を「もっとも行動や考えのわかりにくい一人である」と述べている。同様に同市編纂室は「一次資料である山鹿素行日記・年譜に全く記載がない」事を理由に大石良雄や大石良重が山鹿素行から山鹿流を学んだとする説をも記してない(wikipediaにおける両記事もこれに倣っている)。中央義士会も「史学的には山鹿素行と大石は無関係」としている。
素行の年譜や日記において、赤穂義士の名は一人も書かれていない。また反対に、『堀部武庸日記』『赤城盟伝』など義士の著作や書簡、及び『堀内伝右衛門覚書』『波賀朝栄(ともひさ)覚書』ら義士から聞き取りした文献に、山鹿流や素行の記述は皆無である。
中興の祖・窪田清音
- 窪田派山鹿流
山鹿素水と相前後する山鹿流兵学の双璧であった窪田清音が、安政2年(1855年)幕府が開設した講武所の頭取兼兵学師範役に就任したことで、山鹿流は幕府兵学の主軸となった。幕府の御用学として山鹿流が採用されたのは、山鹿素水、九鬼隆都、窪田清音の関係によるものとされる。窪田清音の山鹿流兵学師範は外祖父である兵学者の旗本・黒野義方である。
山鹿流を軸に甲州流軍学、越後流、長沼流を兼修した窪田清音の兵学門人は三千人。近代兵器が出現後も、清音は山鹿流の伝統的な武士道徳重視の講義をしたが、石岡久夫の研究によると、清音が著した五十部の兵書のうち晩年の「練兵新書」、「練兵布策」、「教戦略記」などは練兵主義を加え、山鹿流を幕末の情勢に対応させようとした大きな傾向があるという。この窪田兵学門人の英才である若山勿堂の山鹿流門下から、勝海舟、板垣退助、土方久元、佐々木高行、谷干城ら幕末、明治に活躍した逸材が輩出された。
日米修好通商条約の遣米使節団として訪米後、横須賀製鉄所の建設を推進した小栗上野介 も窪田清音から山鹿流を学んでいた。小栗の「幕府の命運に限りがあるとも、日本の命運に限りはない。」との発言は、皇統を尊重する思想と武士道精神を土台とする山鹿流兵学の思想そのもので小栗に与えた影響は大きいと分析している。
山鹿流兵学の弱点
- 免許皆伝の井伊直弼が桜田門外で討たれたように、奇襲・冬の陣・夜討ち・数の暴力に極めて弱く、実戦的ではないとされる。
- 山鹿流教授であった吉田松陰でさえも、その精神こそ素晴らしいものであるが山鹿流兵学では夷狄にかなわず、西洋兵学を導入すべきだと主張していた。
山鹿流著作
主として山鹿素行によるものを挙げるが津軽・平戸・長州の諸藩にも門弟による著作が多数ある。
- 『山鹿語類』
- 『中朝事実』
- 『武家事紀』
コメント