引き続き竹島問題についてウイキペディアに以下の記述があります。
竹島の漁業経済価値と排他的経済水域問題
竹島は険しい岩山で面積も狭く島自体から得られる利益はほとんど無いが、周囲の広大な排他的経済水域 (EEZ) の漁業権や海底資源の権利が存在する。現在この島のEEZ内で石油などの海底資源は特に見つかっておらず、現在最も問題になっているのは漁業権である。竹島と周辺海域の経済価値は、1952年の日本の水産庁によれば130億円(李ライン内)、1974年の島根県漁連の算出では年間漁獲高は76億円、2010年の韓国の算出では年間11兆5842億ウォン(約8600億円)である。現在の日韓漁業協定では竹島周辺海域に共同水域を設けているが、韓国側の違法操業が問題になっている。
当時の国際海洋法から見た李承晩ライン
1952年の李承晩ラインの狙いは漁場としての利益であったともされ、韓国による近海漁業の独占が目的であったとされる。1951年の国際法委員会草案では「いかなる場合にも、いかなる水域も漁業を行おうとする他国民を排除してはならない」と排他的独占権は認めておらず、また「管轄権は関税徴収や衛生目的のものであり、沿岸国が漁業を独占するための管轄権は認められない」とも記されている。海洋法からみても違法であるが、1952年1月の李承晩ライン設定に関して1958年に制定された海洋法を適用することは法律の遡及に当たり無効という考えもある。このような漁業独占権宣言は、1945年のトルーマン宣言を曲解した、アルゼンチン、ペルーなど南米諸国にも起こったが、トルーマン宣言の「水域は他国と合意された規程により統制管理される」とした内容にも反しており国際問題になっていた(李承晩ライン#トルーマン宣言参照)。海洋法の制定された1958年以前は、抗議する日本に対し韓国は李承晩ラインを韓国の主権行為として反論している。1956年4月13日、日本の重光葵外相は、韓国の李承晩ラインを認めることはできないが、韓国に拿捕された漁民を救出するためには、韓国に寛大な姿勢を見せることも必要ではないかと発言している。
1958年以降、日韓会談においては漁業管轄権を国際海洋法の観点から否定する日本に対して韓国側は反論できなかったが、李承晩ラインは1965年の日韓基本条約まで解消されることはなかった。
韓国軍による日本人漁民殺害と日本漁船拿捕
朝鮮戦争中の1952年1月18日に韓国の李承晩大統領によって海洋主権宣言に基づく漁船立入禁止線(いわゆる李承晩ライン)がひかれ、竹島が韓国の支配下にあると宣言した。1952年のこの宣言から1965年の日韓基本条約締結までに、韓国軍は李承晩ライン越境を理由に日本漁船328隻を拿捕し、日本人44人を死傷させ、3,929人を抑留した。1947年から1965年末までに日本人8人の死亡が確認されている。韓国側から日本の海上保安庁 巡視船への銃撃等の事件は15件におよび、16隻が攻撃された。
1953年1月12日、韓国政府が李承晩ライン内に出漁した日本漁船の徹底拿捕して以後、日本漁船の拿捕や銃撃事件が相次ぎ、日本の漁業従事者に死傷者が多数出る事態となった。同年2月4日には第一大邦丸事件が発生した。済州島付近で操業中の同船が韓国側に銃撃を受け、漁撈長の瀬戸重次郎が死亡した。
独島義勇守備隊と韓国警察の竹島上陸
1953年4月20日には韓国の民間組織独島義勇守備隊が、竹島に初めて駐屯。6月24日、日本の水産高校の船舶が独島義勇守備隊に拿捕される。6月27日に日本の海上保安庁と島根県の9人が水産試験船で竹島に上陸し竹島調査を行い、『日本島根縣隠地郡五箇所村竹島・・・』と書かれた標識を建て、竹島に住み着いていた韓国の漁民6名を退去させた。すると、7月12日に竹島に上陸していた韓国の独島守備隊が日本の海上保安庁巡視船「へくら」(PS-9) に90mの距離から機関銃弾200発を撃ち込む事件が起きる。
1953年10月15日、韓国の山岳界を代表する韓国山岳会の有志会員らが写真家を伴い、ソ・ドクギュ大尉が指揮する海軍905艇で竹島に渡った。上陸した山岳会調査隊の構成メンバーは、測地班、記録班、報道班など。彼等は、日本が建てた『日本島根縣隠地郡五箇所村竹島』の標識を引き抜いた。その後、洪鍾仁(韓国山岳会会長、当時の朝鮮日報主筆)は、彼等が持って来た石碑を設置した。この石碑には、表面に「독도」「獨島」「LIANCOURT」(正式フランス語名称は“Rochers de Liancourt”)、裏面に「한국산악회(韓国山岳会)」「KOREA」「ALPINE ASSOCIATION」「15th AUG 1952」等と刻まれている。
以後、韓国は鬱陵島の警察官約40名を竹島に常駐させており、日本の艦船の接近を認めていない。また独島の西島には韓国人夫婦が定住している。竹島は毎年韓国軍による独島防衛訓練が行われている。日本政府はこの韓国による竹島実効支配に抗議しているが、韓国側は独島は韓国固有の領土であるとして「内政干渉」であると言い張っている。
なお当時韓国には拿捕の法的根拠である漁業資源保護法は施行されておらず、日本漁船拿捕は国際法また韓国国内法においても非合法的な行為であった。この韓国の行為に対して日本の水産庁は「他国の類似事例とは比較にならないほど苛烈」と評した。しかし、韓国側は1952年1月18日の大韓民国海洋主権宣言が拿捕の根拠であるとしている。
また、韓国李承晩体制下に行われた一連の行為を、1960年、駐日米国大使ダグラス・マッカーサー2世は、アメリカ国務省への機密電文(機密電文3470号)の中で「国際的な品行や道徳等の基本原理を無視した実力行使の海賊行為」と表現し、「日本人は李承晩の占領主義的手法で苦しんでいる」と訴えている。
金鍾泌による竹島爆破提案
1962年10月の大平正芳外相との会談で金鍾泌中央情報部長は、国際司法裁判所への付託を拒否したが、米国務省外交文書集によれば、金鍾泌は日本側に竹島問題の解決策として竹島破壊を提案していた。金鍾泌は、東京での池田勇人首相および大平外相との会談後、訪米。1962年10月29日のディーン・ラスク国務長官との会談において、ラスクが「竹島は何に使われているのか」と問うたところ、金鍾泌は「カモメが糞をしているだけ」と答え、竹島破壊案を自分が日本側に提案したと明かした。
のちに韓国国内で「独島爆破提案説」が問題視された際、金鍾泌は「日本には絶対に独島を渡すことはできないという意思の表現だった」と弁明している。また2010年の朝鮮日報の取材に対して金鍾泌は「国際司法裁判所で日本のものだという判決が出ても、すべてを爆破してなくしてしまってでも、あなたたちの手に渡すつもりはない」と激高して発言したと回想しているが、これは米国務省外交文書集「東北アジア1961-1963」収録関連会談記録の様子とは趣が異なる。
竹島密約
日韓基本条約締結おける障害の一つであった竹島問題に関し、韓国の雑誌「月刊中央」2007年4月号で、日韓基本条約締結5ヶ月前の1965年1月11日に、日本の河野一郎建設相の特命を受けた宇野宗佑衆議院議員が、ソウルで朴健碩汎洋商船会長の自宅で丁一権首相に会い、「未解決の解決」を大原則に全4項からなる竹島付属条項に合意していたとした。その密約は翌日の1月12日に朴正煕大統領の裁可を受け、宇野は13日に河野大臣を通じ佐藤栄作首相に伝えたとしている。
「月刊中央」の客員編集委員だったロー・ダニエルは金鍾泌の兄で銀行家の金鍾洛に対するインタビュー取材をおこなったが、そのなかで金鍾洛は韓国と日本が竹島問題を「今後解決すべきものとしてひとまず解決と見なす」というアイデアは自分が出したと述べたうえで「こうして独島密約は結ばれ、当時の朴正煕軍事政府は韓国が韓半島の唯一の合法政府という明言を日本から受けること、経済開発に必要な経済協力資金の確保という2つの問題をともに解決したことになった」と明らかにした。
竹島密約は「解決せざるをもって、解決したとみなす。従って、条約では触れない」という2文を中心に、
- 独島(竹島)は今後、韓日両国ともに自国の領土と主張することを認め、同時にこれに反論することに異議を提起しない。
- 将来、漁業区域を設定する場合、両国が独島(竹島)を自国領土とする線を画定し、2線が重複する部分は共同水域とする。
- 現在韓国が占拠した現状を維持する。 しかし警備員を増強したり新しい施設の建築や増築はしない。
- 両国はこの合意をずっと守っていく。
という4つの付属条項を付けていたとしている。こうした密約が実際にあったかどうかについては、今後の歴史学者の研究に委ねられるとしても、国交正常化当初は、両国ともこの密約にしたがうような穏やかな立場からの相互の見解表明より日韓関係が開始していたことは事実である。しかし、1993年に成立した金泳三政権時代以降の韓国では、竹島問題をめぐる感情的な対日批判が先鋭化するようになり、また、同政権が竹島に新たに接岸施設を建設したことで、(密約があったとしても)付帯条項3.の約束は明白に破られたことになる。
2007年3月20日、塩崎恭久官房長官はこのことについて「政府としてはそのような密約があるとは承知していない」と否定した。
「竹島問題④」につづく
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