大山寺の参拝を終えてレンタカーを停めていた駐車場へ戻りました。日が暮れるまではまだ時間があったのでどこに行こうかと奥さんと相談しました。たまたまその日に奥さんは友人から神魂神社の事を聞いていました。これも何かの縁とおもい神魂神社へ参拝することにしました。
神魂神社について調べてみました。ウイキペディアには以下の記述があります。
神魂神社(かもすじんじゃ)は、島根県松江市大庭町にある神社である。旧社格は県社で、意宇六社の一社。本殿は現存する日本最古の大社造りで国宝。地元では「神魂さん」、「大庭の大宮さん」と呼ばれ、大庭大宮、神納神社の別名もある。
概要・歴史
社伝によれば、出雲国造の大祖・天穂日命がこの地に天降って創建したと伝わるが、『延喜式神名帳』、国史や『出雲国風土記』に当社が出現しないが、その理由として、出雲国造家が、自らの祖神を大庭にあった邸内で私的に祀り祭祀を行ったていた、または邸内に祀っていた社が起源であった可能性が強く、そのため文献に記載がなかったと考えられている。やがて現在地に勧請され、近隣住民の信仰を集める形となったと考えられている。文献における初見は承元2年(1208年)の鎌倉将軍家下文であり、実際の創建は平安時代中期頃とみられている。
神魂神社のある大庭(おおば)は、出雲の国分寺、国府に近く古代出雲の政治、交通、経済の中心地であり、天穂日命の子孫の出雲国造が住んだと伝わり、出雲国造は出雲大社の宮司家となるが、出雲国造として25代まで当社に奉仕していた。延暦17年(798年)以降、郡司兼務を禁じられ、大庭に別邸を残したまま、現・出雲大社のある杵築(きつき)に居を移すが、出雲国造家の代替わりのときに行われる「神火相続式(おひちぎしき)」、「古伝新嘗祭」の祭祀は、明治初年まで当社に参向して行われており、また大庭の別邸も明治初年まで神魂神社の社頭近くに存在していた。
出雲大社近傍にある意宇六社(熊野大社、真名井神社、揖夜神社、六所神社、八重垣神社、神魂神社)は、出雲国造家の緩い支配下にあったとされ、幕末まで神職の免許、社殿の造営、遷宮には、出雲国造家が関わっていたとされる。特に神魂神社は、他社に比して出雲国造家の強い支配下にあり、享保20年(1735年)の『神魂社規式』に、神社の神主は出雲国造の名代として奉仕する者と記されている。また出雲国造家が、明和9年(1772年)ごろ京都の柳原家へ宛てた書状『出雲両国造家代書状』などによると、神魂神社は出雲大社の摂社であり、神主や別火などの神職は、出雲国造の下司とされ、神魂神社は独立した神社と見なされていなかったことが窺える。
経済的基盤として。鎌倉初期には、出雲国造家は神社の北西付近を神魂神社神領として所有し、地頭職兼ねていた。天正13年(1585年)には、吉川元春などから86石ほどの祭田が与えられ、慶長6年(1601年)には、新・国主の堀尾氏から、71石4斗の社領が寄進を受け、寛永15年(1638年)にも新・国主の松平直政からも寄進をうけ、計221石4斗の社領を所有するようになり、幕末まで社領は安堵され、出雲国内では、出雲大社の2730石、日御碕神社の1280石に継ぐ石高となっている。
祭神
- 主祭神
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- 伊弉冊大神
- 配祀神
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- 伊弉諾大神
祭神については、神魂神社神主を世襲で努めた秋上家の文書によると、中世末期から近世初期ごろに、上記の祭神とすることが多く、それ以前の祭神は不明である。時代が下って寛文年間ごろの新嘗会祝詞には、熊野大神・大己貴命などの神名が見えるが、当社の創始が出雲国造家の私的祭祀や邸内の社と考えられ、出雲国造家と関わりの深い熊野大社や出雲大社に深く関わる祭神であったからと考えられる。また社名から、出雲氏族の一つの神魂命が元の祭神であったとも考えられている。
神紋
二重亀甲に「有」の文字。
境内
- 一の鳥居
- 二の鳥居
- 本殿 – 国宝(後述)
- 拝殿
- 境内社
- 歳徳神 – 二の鳥居脇に鎮座する
- 杵築社 – 祭神:神素嗚嗚尊、葦原醜男命
- 伊勢社 – 祭神:天照大神、月夜見神
- 熊野社 – 祭神:速玉男命、事解男命、菊理姫命
- 御釜宮 – 天穂日命が、高天原から御釜に乗って大庭の里に現れたという伝説により、御釜神事が行われる。
- 荒神社 – 祭神:興津彦命、他2柱
- 外山社 – 祭神:鸕鷀草葺不合尊、他1柱
- 貴布祢稲荷両神社 – 貴布祢社祭神:闇龗神。稲荷社祭神:倉稲魂神。重要文化財。
- 武勇社 – 祭神:経津主命、他2柱
- 蛭子社 – 祭神:蛭子命
- 秋葉社
本殿はとても歴史と威厳を感じる建屋でした。わかる人が見たらすごい力を持っているのだろうと思いました。お天気の良い特に再び訪れたい神社でした。
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