11月20日

11月20日はホテルの日だそうです。1890年11月20日に帝国ホテルが開業しましたことを記念し制定されたそうです。

帝国ホテルについて深堀したいと思います。ウイキペディアには以下の記述があります。

帝国ホテル(ていこくホテル、英: Imperial Hotel)は、東京都千代田区内幸町に所在するホテル。

概要

帝国ホテルの位置

運営者の株式会社帝国ホテルは帝国ホテル東京のほか、帝国ホテル大阪、上高地帝国ホテルを経営する。日本を代表する高級ホテルであり、ホテルオークラ、ニューオータニとともに「御三家」(ホテル御三家)として知られる。

沿革

帝国ホテル開業を知らせる『東京日日新聞』の広告

明治19年(1886)に東京の官庁集中計画が練られた際に、外国人の接遇所を兼ねた国を代表する大型ホテルの設計が組み込まれ[1]、帝国ホテルが1890年(明治23年)11月3日に落成、同7日に開業した[2]。1883年建設で隣接する鹿鳴館と密接な関連を持つホテルとして井上馨の説得で渋沢栄一と大倉喜八郎の2人が1888年(明治21年)有限責任帝国ホテル会社(設立当初は有限責任東京ホテル会社)を設立し、建設した

経営権は渋沢から大倉、そしてその死後は長男の大倉喜七郎へと引き継がれた。しかし戦後に、喜七郎が公職追放に遭った上に財閥解体によって大倉家の持ち株は放出。代わって東京殖産の長田庄一から巨額の資金援助を受けた「北支の煙草王」こと金井寛人が1953年(昭和28年)に株式の多くを獲得して会長となる

1977年(昭和52年)の金井の死後、その全持ち株が小佐野賢治の国際興業に譲渡。2004年(平成16年)にはその国際興業がサーベラスに買収されるが、2007年(平成19年)10月に国際興業保有帝国ホテル株式の大半が三井不動産に売却され、現在は三井不動産が約33%を保有する筆頭株主となった

2019年7月、東京電力ホールディングス本店ビルやNTT日比谷ビルなどと一体で、内幸町一丁目街区の一部として、複数の高層ビルが建てられるという方針が報道された。主体となる事業者は三井不動産とNTT都市開発。帝国ホテルについてはタワー館を2030年度に完成させ、本館も2036年度に完成する予定

初代帝国ホテル

初代帝国ホテル
  • 渡辺譲 設計
  • 木骨煉瓦造、3階建、客室数約60。1泊2円75銭~9円。
  • 1890年(明治23年)竣工。11月20日竣工式。1919年(大正8年)失火から全焼。

ドイツで建築を学び帰国したばかりの若手建築家の渡辺は、海外で学んだ知識を活かした様式の建物を建てるが、当時の海外市街地型ホテルの主流であった接道型ホテルではなく、日本の邸宅風の建物配置を選び、建物内部には日本趣味の装飾を施すなど、日本流のアレンジを加えた

ライト館

  • フランク・ロイド・ライト 設計。
  • 鉄筋コンクリートおよび煉瓦コンクリート造、地上3階(中央棟5階)、地下1階、客室数270。
  • 1923年(大正12年)竣工。9月1日開館式。1968年(昭和43年)新本館建設のため解体。

1914年(大正3年)頃から、当時の総支配人だった林愛作は旧知のアメリカ人建築家、フランク・ロイド・ライトと新館設計の相談を重ね、1916年(大正5年)に契約を結んだ。翌1917年(大正6年)にライトは来日し、1919年(大正8年)9月、着工した。ライトは使用する石材から調度品に使う木材の選定に至るまで、徹底した管理体制でこれに臨んだ。

鷲が翼を広げたような巨大なホテルは、10のブロックをエキスパンションジョイントで繋ぎ合わせた構造になっており、これで建物全体に柔軟性を持たせるとともに、一部に倒壊があっても全体には累を及ぼさない仕組みになっていた。また大規模ホテルとしては世界で初めて全館にスチーム暖房を採用するなど、耐震と防火に配慮した設計だった。

左から、遠藤新、フランク・ロイド・ライト、伊藤文四郎

しかし、こうした完璧主義は大幅な予算オーバーを引き起こした。ライトはアメリカでの仕事のため度々帰国しながら施工の総指揮を続けていたが、1922年(大正11年)4月、隣接する初代帝国ホテルが失火から全焼すると、新館の早期完成は経営上の急務となり、設計の変更を繰り返すライトと経営陣との衝突は避けられなくなった。さらに当初予算150万円が6倍の900万円に膨れ上がるに至って、林は総支配人を引責辞任、ライトも精魂注いだこのホテルの完成を見ることなく離日した(1922年7月)。一部完成済みの部分を利用してホテルは営業を再開した。

ホテルの建設はライトの日本における一番弟子だった遠藤新の指揮のもと、その後も続けられた。1年後の1923年(大正12年)7月、着工以来4年の歳月を経てライトの本館は完成した。9月1日に落成記念披露宴が開かれることになったが、関東大震災が東京を襲ったのは、まさに宴の準備に大忙しの時だった。周辺の多くの建物が倒壊したり火災に見舞われたりする中で、小規模な損傷はあったもののほとんど無傷で変わらぬ勇姿を見せていたライトの帝国ホテルはひときわ人々の目を引いた。ライトは二週間後このことを遠藤からの手紙で知り、狂喜したという。

1945年(昭和20年)3月10 – 11日の東京大空襲では、本館中央部から南翼、孔雀の間、演芸場などに多くの焼夷弾が落ち、焼失は総床面積の四割強に及ぶ大きな被害を受けた。終戦ともに帝国ホテルはGHQに接収され、そこで大規模な修復工事が行われ、復旧した。

占領が終わって日本を訪れる外国人が再び増え始めたことに伴い、1954年(昭和29年)にはライトの本館の裏手(現在インペリアル・タワーが建っている敷地)に客室数170の第一新館が完成、1958年(昭和33年)にはその横に地上10階、地下5階、客室数450の第二新館が完成した。これを受けて、1964年(昭和39年)にはライトの本館を取り壊し、その跡地に新たに鉄筋コンクリート造、地上17階、地下3階、客室数772の新本館を建設することが発表された。

震災にも空襲にも耐えたこのホテルの存続を訴える大規模な反対運動が起ったが、本館は地盤沈下などの影響で柱が傾き雨漏りがするといった老朽化の問題もさることながら、都心の一等地を占有する巨大な建造物の客室数がわずか270室では話にならなかった。

ライトの新館は1967年(昭和42年)に閉鎖され、翌年春頃までに取り壊された。跡地に建設された近代的外観の新本館は、1970年(昭和45年)の日本万国博覧会開会に合せて、同年に竣工した。

「ライト設計の帝国ホテル本館」は、「ライト館」と呼ばれるようになった。ライト館の玄関部分は博物館明治村(愛知県犬山市)に十数年の歳月をかけて移築再建され、今日でも在りし日の面影を偲ぶことができる。また、東武ワールドスクウェア(栃木県日光市)では縮尺25分の1のミニチュアで在りし日のライト館全景を再現している。2005年(平成17年)4月、新本館14階の「インペリアルフロア」に新設された「フランク・ロイド・ライト・スイート」は、ライト館のさまざまな箇所に施された独特なマヤ調の意匠やライト独自のスタイルでまとめられた内装や調度品を忠実に再現したものとなっている。

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