戦争 反対です

ロシアのウクライナ侵攻は許されることではありません。戦争反対です。武力により相手国を制圧する暴挙は決して許されることではありません。

わたくしの両親は昭和一桁生まれです。10代の若い時期に第二次世界大戦を経験しました。幼いころ両親から戦争の悲惨さを聞かされました。母親は戦時中 神戸で暮らしていました。幼少期に親を亡くし親戚筋の家庭で育てられたそうです。その当時の事は母にとって悲しい、辛い思い出だったようです。あまり詳しくは教えてもらったことはありませんでした。母があまりにも辛い仕打ちを受けていることを知り、母のおばに当たる方がその後、面倒見てくれたようです。そのおばの旦那さんは神戸で飲食の仕事をして結構資産を築かれました。わたくしはそのおばを「おばあちゃん」と呼びかわいがっていただきました。住まいはかなりのお屋敷という感じでした。本宅横に蔵がありいつも暗い場所でした。そこは幼いわたくしにはとても怖い場所でした。母はおばの家庭で育てられいとこにあたる子どもとともに成人するまで過ごしました。母は戦時中の食糧難の話をしました。お米が食べる事がなかなかできなかったという話です。すいとんを食することが多かったと言ってました。具材がほとんど入っていないすいとんだったようです。いつもお腹を空かせていたと言ってました。サツマイモのつるを食べた話もしていました。神戸にも米軍の空襲がありました。軍需工場があったためです。日本の各地で空襲がありました。母はおば家族とともに疎開したそうです。疎開という言葉は母から教えてもらいました。「空襲で爆弾が落とされたくさんの人が亡くなった。焼夷弾という爆弾で落とされた場所は火の海になった。建物が燃えて多くの人が亡くなった。その危険から逃れるため、空襲の来ない田舎の方へ疎開した。」疎開先ではかなりつらい生活をしたようでした。疎開先はおば夫婦の知人だったようですが、いくら知人と言っても所詮 他人。わが身、自分の家族が最優先となります。辛かったと母はいってましたが、その詳細は教えてくれませんでした。話すのもつらかったのでしょう。戦争では多くの人がなくなりました。母の親戚筋の中にも戦死した人がいたようです。おばの旦那さんが営んでいた飲食店も被害がありました。当時の神戸の娯楽の中心であった新開地に本店を置き、その他神戸市内に数店舗 店舗展開していました。神戸の空襲で被害を被ったとのことです。戦争はどんどん激化し、店舗運営が立ち行かない状態となったようでした。しばらくは我慢の日々だったようです。やがて終戦を迎えました。母は疎開先で終戦を迎えました。その時、母は戦争が終わってよかったと思ったそうです。しかし、戦後も食糧難は続きました。多くの人が家族を亡くしました。戦争で家を無くした人もいました。土地を失った人。財産を失った人。仕事を無くした人。戦争は多くの人を不幸にします。それは負けた国だけではなく、勝利した国にも不幸な人を作り出しています。天災も人々を不幸にします。多くの人を悲しませることが起きてしまいます。戦争はそうではありません。戦争は「しない」選択ができるものです。戦争と違う選択が可能なことです。権力者のエゴで起こしてしまう戦争は、もっとも愚かな選択でした在りません。戦争をする動機はたくさんあります。領土問題、資源問題、民族問題等々・・・すべてエゴでしかありません。悲しい事実として人間の歴史は戦争の歴史でもあるのです。また、科学や技術の進化も戦争によってもたらされています。これも事実です。自分を幸せにするために他人は不幸にしても構わない。そのような危険な価値観は否定されるべきであります。全人類の平和を願い、それに向けて我々は日々活動しなくてはならないと思います。

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