千葉県佐倉市1

奥さんの実家が千葉県佐倉市です。もともと関西出身のわたくしにはなじみがない地名です。しいて言えば・・・佐倉市はミスター長嶋茂雄氏の出身地…ということぐらい。佐倉について調べてみました。

まずは佐倉市のHPで概要紹介・・・佐倉市は、千葉県北部、下総台地の中央部に位置し、都心から40キロメートルの距離にあります。成田国際空港へは東へ15キロメートル、県庁所在地の千葉市へは南西へ20キロメートル、市北部には印旛沼が広がります。面積は、103.69平方キロメートルです。
佐倉市の市域は、印旛沼の南に広がる台地、傾斜地からなっており、その間を鹿島川や高崎川、小竹川などが流れ、印旛沼に注いでいます。標高30メートル前後の台地は北から南へ向かうほど高くなります。
年間の平均気温は15℃前後で、比較的温暖な気候に恵まれています。印旛沼周辺、佐倉城址周辺、また東部、南部の農村地帯などには豊かな自然が残っています。

京成電鉄本線、JR総武本線・成田線が市の東西を貫き、都心までおよそ60分、成田空港と千葉へはそれぞれ20分です。また市内には新交通システムによるユーカリが丘線が運行し、バス路線とともに各駅と住宅地を結ぶ市民の足となっています。
一方、道路は市の南部に東関東自動車道(高速道路)と、国道51号が走り、それぞれ東京と成田を結ぶほか、国道296号が市を横断する主要な生活道路となっています。

市章について

昭和30年4月1日に制定された市章は、馬のくつわにつける金具である鐶(かん)を、花びらに見立てて、桜の花を形どったものです。
鐶は、乗馬の際、馬を引き締める大切な金具であり、佐倉市の発展への強い意志を表すもので、桜は、平和な田園都市を表現したものです。

佐倉市の木、花

 市の木である桜は、その美しい姿に佐倉市の姿をイメージさせる木として、昭和46年の一般公募の際、最も投票数の多い木でした。
また、市の花である花菖蒲も、この公募で選ばれました。印旛沼を背景にした佐倉市のイメージにふさわしい花です。
佐倉市の木/桜(さくら)、佐倉市の花/花菖蒲(はなしょうぶ)

【左】佐倉市の木/桜(さくら)
【右】佐倉市の花/花菖蒲(はなしょうぶ)

「佐倉」の由来

 昔、この地で生産された麻布を、朝廷に献上するための貯蔵庫があったことから、アサクラが転じサクラになったという説と、清い倉があったことから、すがすがしい語源をもつ「さ」という言葉をつけ、「さくら」と呼ぶようになった説などがあります。
どちらにせよ、古くから、この地に人が住み、倉を建て暮らしを営んでいたことが、佐倉という地名からうかがうことができます。

鎌倉幕府の成立にともない、佐倉市域の荘園を支配していた在地領主に代わって千葉氏が勢力を伸ばし、佐倉市域は千葉氏の支配下に置かれました。室町時代、関東全域を巻き込んだ「享徳の乱」が、享徳三年(1454)におこると千葉氏は分裂し、戦国の動乱へと巻き込まれていきます。この動乱の中、千葉氏はその本拠を佐倉に移し本佐倉城を築きました。臼井城では二度の大きな合戦があり、16世紀中頃に臼井城主となった千葉氏重臣の原氏が小田原の北条氏に従いながら勢力を伸ばしました。しかし、戦国時代末期、小田原北条氏が滅ぶと佐倉を支配していた領主も大きく様変わりすることになります。つまり、北条氏に従っていた千葉氏、原氏は没落し、代わって関東地方を支配することになった徳川家康の家臣や一門が佐倉を治めることとなったのです。その後、徳川家の家臣団が整理されていく中で、中世の城郭は姿を消し「近世」という新たな時代を迎えることとなります。江戸の将軍・幕府を中心として、藩が各地域を治める幕藩体制下にあったこの時代、佐倉市域で、藩の中心となったのは佐倉城です。慶長15年(1610)、土井利勝が佐倉の領主となり、その翌年から佐倉城の築城が開始され、7年の歳月をかけて完成しました。同時に城下町も整備され、佐倉城は江戸を守る要衝の一つとして数えられました。
その後、有力な譜代大名が佐倉藩主に任ぜられ、堀田氏がその多くを輩出しました。寛永19年(1642)、正盛が、堀田氏の中ではじめて藩主となりました。その子の正信は、幕政批判などをしたため領地を没収され、その後、松平氏、大久保氏、戸田氏、稲葉氏らが藩主に任ぜられました。延享3年(1746)、正盛のひ孫の正亮(まさすけ)が山形から佐倉へ入封した後は、明治維新まで堀田氏が佐倉藩主となっています。江戸時代末期、堀田正睦(まさよし)は、幕閣として2度老中を務め、藩主として様々な改革を行いました。特に教育に力を入れ、藩校の成徳書院を拡充し、蘭学を中心とする洋学を積極的に取り入れました。この頃、天保14年(1843)、江戸で活躍していた蘭方医の佐藤泰然が佐倉に蘭医学塾兼診療所の「順天堂」を開き、最先端の医学教育とその実践を行いました。正睦の後を継いだのは、正倫(まさとも)で、彼が最後の佐倉藩主となりました。明治維新後、陸軍歩兵連隊が佐倉におかれることになると、佐倉城の建物のほとんどが撤去され、次の時代への一歩が踏み出されました。

次回につづく

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