千葉県佐倉市2

引き続き佐倉市のHPから

明治維新を迎えた日本は、西欧の革新的技術の導入によって、軍事をはじめとする産業を奨励するとともに、富国強兵に努めました。内政面では、軍事、税制において、徴兵令や地租改正といった抜本的な構造改革を実施しました。対外的には、徳川政権期に結ばれた不平等条約の改正を諸外国と交渉し、また、日清・日露戦争といった対外戦争に勝利するなかで西欧諸国と互角の地位に登りつめました。

佐倉では、廃藩置県により佐倉藩が廃止され、佐倉県が設置されました。また、旧体制の象徴とみなされた佐倉城が取り壊され、同じ場所に近代的な装備を整えた陸軍の兵営が設置されました。その地では、国民皆兵を掲げる明治政府の方針によって、千葉県内外から多くの若者が厳しい調練に従事し、戦場に赴きました。有名な部隊としては、日清戦争での旅順攻防に従軍した歩兵第2連隊や、第二次世界大戦のレイテ戦で悲劇的な最後を迎えた歩兵第57連隊を挙げることができます。当時の佐倉は、兵隊を抱える連隊の街としてにぎわいをみせていました。現在の新町通りから田町の歴博入口にかけての成田街道筋には、飲食店や日用雑貨を扱う商店をはじめ、写真店、軍服仕立ての店など、連隊向けの商店がたくさんありました。
また、佐倉連隊兵営跡地(現在の国立歴史民俗博物館敷地内)で実施された発掘調査では、連隊時代につくられた建物の基礎部や、兵隊が調練用に掘った塹壕跡などがみつかっています。

現代とは、おおむね第二次世界大戦後から現在までを指します。

大きな戦争を終えた佐倉は、連隊の街から歴史に根差した色彩豊かな街として発展してきました。

昭和28(1953)年の町村合併促進法を受け、佐倉町、臼井町、志津村、根郷村、弥富村、和田村が合併し、昭和29(1954)年3月31日に市制が施行されました。この時期の全国的な市町村合併を「昭和の大合併」といい、新制佐倉市の人口は、3万5196 人になりました。昭和30(1955)年には、旭村(現四街道市)から馬渡が編入、昭和32(1957)年には、四街道町(現四街道市)から畔田、生谷、吉見、飯重、羽鳥が編入され、私たちの知る佐倉市になりました。現在、佐倉には、17万を超える方々が住んでいます。

現在の佐倉市は、佐倉、臼井、志津、根郷、千代田、和田、弥富という七つの地区に大別され、面積は、103.69㎢で、だいたい東京ディズニーランド約203個分の広さを誇ります。市の木であるさくら、市の花である花菖蒲は、市民の公募によって選ばれました。佐倉城本丸跡の勇壮なさくらや、城址公園にたおやかに咲く菖蒲、ふるさと広場のチューリップや向日葵、コスモスなど、季節ごとに自然の美に囲まれたカラフルな大地が佐倉の特色です。また、佐倉城跡は、城址公園として整備され、佐倉連隊の置かれた地には、国立歴史民俗博物館が建てられています。その他にも、武家屋敷や旧堀田邸、佐倉順天堂記念館など、歴史の舞台となった場所は、一般公開されています。まさに、明日へ歴史を大切に伝える街が佐倉市なのです。

参考文献

  • 佐倉市史編さん委員会編『佐倉市史』巻1~4、考古編
  • 佐倉市総務部総務課市史編さん室編『ふるさと歴史読本 原始・古代の佐倉』佐倉市、1999年
  • 佐倉市総務部総務課市史編さん室編『ふるさと歴史読本 中世の佐倉』佐倉市、2000年
  • 佐倉市総務部総務課市史編さん室編『ふるさと歴史読本 近世の佐倉』佐倉市、1998年
  • 佐倉市総務部総務課市史編さん室編『ふるさと歴史読本 近代の佐倉』佐倉市、2001年
  • 佐倉市総務部総務課市史編さん室編『佐倉市市制50周年記念写真集 写真にみる佐倉』、佐倉市、2004年
  • 国立歴史民俗博物館展示解説図録『佐倉連隊にみる戦争の時代』国立歴史民俗博物館、2006年

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