五芒星巡り3

5か所のうち、3か所が決まりました。目黄不動尊様、深川不動尊様、摩利支天徳大寺様。地図上にこの3か所をプロットしてあと2か所をどこにするかを検討しました。五芒星を描くためには1か所は墨田区の鐘ヶ淵の周辺。探してみると多聞寺様が見つかりました。

このお寺は「真言宗智山派寺院の多聞寺は、隅田山吉祥院と号します。創建年代は不詳ですが、天徳年間(957-960)には現隅田川神社付近にあり、大鏡山明王院隅田寺と称していたといいます。天正年間(1573-1591)に鑁海上人が本尊を毘沙門天として隅田山吉祥院多聞寺と改称したと伝えられます。本尊は、隅田川七福神の一つにもなっている毘沙門天です。茅葺の山門は区内最古の現存建造物で墨田区の指定文化財です。その他創建にまつわる妖怪狸を供養した狸塚や、東京大空襲で被災した浅草国際劇場の鉄骨など多くの文化財を有しています。南葛八十八ヶ所霊場79番、荒川辺八十八ヶ所霊場65番、荒綾八十八ヶ所霊場5番、新葛西三十三所観音霊場16番です。」

多聞寺の縁起

多門寺の創建年代は不詳ですが、天徳年間(957-960)には現隅田川神社付近にあり、大鏡山明王院隅田寺と称していたといいます。天正年間(1573-1591)に鑁海上人が本尊を毘沙門天として隅田山吉祥院多聞寺と改称したと伝えられます。江戸期には隅田川神社の別当寺でした。

新編武蔵風土記稿による多聞寺の縁起

多聞寺
新義真言宗、寺嶋村蓮花寺末、隅田山吉祥院と号す。慶長11年起立す。法流開山円実宝暦5年正月2日寂す。本尊毘沙門は弘法大師の作にて長1尺2寸、脇士十一面観音及不動を置。
五智堂。
鐘楼、延享3年造立の鐘を掛。
香取社、稲荷社。(新編武蔵風土記稿より)

すみだの史跡文化財による多聞寺の縁起

天徳年間(957-960)には墨田千軒宿、今の隅田川神社付近にあって、大鏡山明王院隅田寺と称え、本尊は不動明王でした。降って天正年間(1573-1591)には41代鑁海上人が、ある夜、夢に毘沙門天(多聞天)尊像を感得して以来、毘沙門天を本尊とし、隅田山吉祥院多聞寺と改称したといいます。なお、明治維新までは隅田川神社の別当寺でした。
多門寺は区内の最北端にあり、関東大震災、戦災ともに遭わなかったので、昔日の面影を残す数少ない寺院となっています。
明治45年には、永信講として「地蔵尊密言流念仏」が発足しましたが、戦時中に中断したのち昭和26年に復活し、毎月24日に催されています。
また、境内の狸塚の前には弥陀三尊の板碑(年紀不明)があり、他に弥陀一尊(花瓶)のものが保管されています。(すみだの史跡文化財めぐりより)

狸塚のいわれ

むかし、江戸時代が開かれる前の頃、今の多聞寺のあたりは隅田川の河原の中で、草木が生い茂るとても寂しいところでした。
そこには、大きな池があり、ひとたび見るだけで気を失い、何ヶ月も寝込んでしまうという毒蛇がひそんでいました。また牛松と呼ばれる、おとなが五人でかかえるほどの松の大木がありました。この松の根元には大きな穴があり、妖怪狸がすみつけ人々をたぶらかしていたのです。
そこで、はんかい和尚と村人たちは、人も寄りつくこともできないような、恐ろしいこの場所に、お堂を建てて妖怪たちを追い払うことにしました。
まず、大きな松を切り倒し、穴をふさぎ、それから池を埋めてしまいました。
するとどうでしょう、大地がとどろき、空から土が降ってきたり、いたずらはひどくなるばかりです。
ある晩のことでした、和尚さんの夢の中に、天までとどくような大入道があらわれて、「おい、ここはわしのものじゃ。さっさと出て行け! さもないと、村人たちを食ってしまうぞ。」とおどかすのでした。
和尚さんはびっくりして、一心にご本尊さまを拝みました。
やがて、ご本尊毘沙門天のお使いが現れて、妖怪狸に話しました。
「おまえの悪さは、いつかおまえをほろぼすことになるぞ。」
次の朝、二匹の狸がお堂の前で死んでいました。
これを見つけた和尚さんと村人たちは、狸がかわいそうになりました。
そして、切り倒してしまった松の木や、埋めてしまった池への供養のためにもと、塚を築いたのでした。

猫の足あとから引用(多聞寺|墨田区墨田にある真言宗智山派寺院、隅田川七福神の毘沙門天 (tesshow.jp)

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