6月25日

2009年6月25日 マイケルジャクソンが亡くなりました。大学時代に「スリラー」が大ブレイクしてました。MTVも流行っていました。マイケルについてウイキペディアには以下の記述がありました。

マイケル・ジョセフ・ジャクソン(Michael Joseph Jackson ONM、1958年8月29日 – 2009年6月25日)は、アメリカ合衆国出身のシンガーソングライター、ダンサー。一般的に「キング・オブ・ポップ」と称されている

20世紀以降のポピュラー音楽に多大なる影響を与えた人物の一人である。全世界での総売上は5億枚を超えており、ビートルズに次いで史上最も売れた音楽家として名を連ねている。また、これまでに13のグラミー賞(ノミネートは38回)を含む750以上の賞を受賞。ギネス世界記録から「人類史上最も成功したエンターテイナー」として認定されている

1958年8月29日、アメリカ合衆国インディアナ州ゲーリーの貧しいアフリカ系家庭に生まれ、幼い頃から兄弟たちとともに音楽の才能を発揮。1970年代に兄弟グループ「ジャクソン5」の天才リードシンガーとして一世を風靡した。

ソロ活動を中心に据えた1980年代、クインシー・ジョーンズをプロデューサーに迎えた三部作『オフ・ザ・ウォール』『スリラー』『バッド』で前人未到の成功を手にし、名実ともにポピュラー音楽界の頂点に立つ。

1990年代以降も『デンジャラス』『ヒストリー』といった大ヒット作を生み出し続けたが、一方で私生活や容姿に関するゴシップや数々のスキャンダルがメディアに取り沙汰されるようになり、心労による鎮痛剤や睡眠薬への依存に悩んだ。

2009年、大々的なカムバックとなるはずだったツアー「THIS IS IT」の実施を発表するも、公演開始1ヶ月前の6月25日、急性プロポフォール中毒により死去した。

世紀のモンスター・アルバム―『スリラー』

1982年12月、移籍後から2作目のソロ・アルバムとなる『スリラー』を発表。先行シングルとしてポール・マッカートニーとのデュエット曲「ガール・イズ・マイン」がカットされた。

再びクインシーがプロデュースを担当した本作は、現在に至るまで少なくとも7000万枚を売り上げたとされており、ギネス世界記録において「史上最も売れたアルバム」として認定されている。また、収録曲9曲のうち7曲がシングルカットされ、その全ての曲が全米チャートでトップ10入りするという前人未到の快挙が成し遂げられた。その価値は批評家にも認められ、2年後の第26回グラミー賞では史上最多となる7部門を制覇する。

本作の発表では付随する革新的なミュージック・ビデオの数々が話題を呼び、それ以降のマイケルの作品には欠かせないものとなった。後に自身最大のヒット曲となった「ビリー・ジーン」のミュージック・ビデオは、「黒人音楽家の作品を放映しない」という当時の人種差別的なMTVの掟を破って放映が解禁され、ミュージック・ビデオ・ブームの先駆けとなった。エディ・ヴァン・ヘイレンを奏者に迎えたシングル「今夜はビート・イット」のミュージック・ビデオでは、ロスの本物のマフィアとの共演が実現し、集団でダンスを披露した。そして何より世界に衝撃を与えた「スリラー」のミュージック・ビデオは、14分にも及ぶ長さのホラー映画風のショート・フィルムとして制作され、その後現在に至るまでミュージック・ビデオの最高傑作として名を残している

1983年5月、兄弟たちと「モータウン25周年記念コンサート」に出演。ジャクソンズのステージの後、ソロで「ビリー・ジーン」を歌い、後にマイケルの代名詞となるムーンウォークを初披露した

同年10月、シングル「セイ・セイ・セイ」を英パーロフォンから発売。ポール・マッカトニーとのデュエットが再び実現したこの曲は、全米チャートで1位を獲得し、マイケルのキャリアでは「ビリー・ジーン」に次ぐ2番目の大ヒットとなった。この曲のミュージック・ビデオは後にマイケルが邸宅として購入することとなるサンタ・バーバラの渓谷で撮影され、姉のラトーヤも出演した。

1984年1月、ペプシのCM撮影において、事故で頭部に火傷を負う。和解金によってペプシとの関係悪化は避けられたものの、頭部の皮膚の深くにまで至る傷を残したこの事故は、後にマイケルが整形手術の繰り返しや鎮痛剤中毒に陥ってしまうきっかけとなり、その後の人生を大きく狂わせた。なお、事故で受け取った和解金はマイケルがすべて病院に寄付した。

同年7月、5枚目となるジャクソンズのアルバム『ヴィクトリー』を発表。『スリラー』のヒットも影響して本作は成功を収め、全米チャートでは最高4位を記録した。アルバムの発売に際して最後のコンサート・ツアー「ヴィクトリー・ツアー」も行われた。

同年末、ツアー終了を機にマイケルはジャクソンズを脱退した。

1985年、アフリカ飢餓救済のための慈善企画「USA・フォー・アフリカ」に参加。マイケルとライオネル・リッチーのペンによる楽曲「ウィ・アー・ザ・ワールド」は、クインシーの指揮のもと、ハリウッドを代表するスター45人が集まって録音され、最終的に全米で750万枚を売り上げた

1986年9月、主演を務めたディズニーランドの3Dアトラクション『キャプテンEO』が公開。劇中では「ウィ・アー・ヒア・トゥ・チェンジ・ザ・ワールド」と「アナザー・パート・オブ・ミー」がオリジナル曲として披露された[注 5]

「キング・オブ・ポップ」の完成

1987年8月、クインシーとの最後の作品となる第3作『バッド』を発表。シンセサイザーの多用が生んだより先鋭的なサウンドに加え、「マン・イン・ザ・ミラー」に代表される世界平和や世相批判などをテーマにした楽曲が本作の大きな特徴となった。また、表題曲の発売に際しては、私服警官に強盗と間違えられて射殺されてしまった青年の実話を基にしたマーティン・スコセッシ監督による18分の大作ショート・フィルムが付けられ、前回の『スリラー』に続いてミュージック・ビデオにおける革新性を再び示した。最終的に本作の売上は多く見積もって3500万枚に達したとされており、売上では前作『スリラー』は超えなかったものの、先行シングル「キャント・ストップ・ラヴィング・ユー」から5曲連続で全米チャート1位を獲得するという初めての快挙を成し遂げた。

同年9月、ソロ初のワールド・ツアー「バッド・ワールド・ツアー」を開始し、初演の地には日本が選ばれた。横浜公演が日本テレビで放映され、日本では「マイケル旋風」と呼ばれる大きなマイケルブームが巻き起こった。最終的に同ツアーは1989年初頭まで続けられ、4つのギネス記録を打ち立てることになる。

1988年1月、自伝『ムーンウォーク』を発表。生涯で唯一の自伝の日本語版は田中康夫の翻訳で同年11月にCBSソニー出版から発売される。2009年に河出書房新社から再刊

同年5月、推定3800万ドルで購入した豪邸「ネバーランド・ランチ」に引っ越す。

同年10月、マイケルが主演及び原案製作総指揮を務めた映画『ムーンウォーカー』が公開。劇中では「スムーズ・クリミナル」や「リーヴ・ミー・アローン」などの楽曲が披露された。

1989年、BREアワーズにおいてポップ・ロック・ソウルの三部門を制する。この時エリザベス・テイラーがマイケルを「ポップ・ロック・ソウルの真の王者」と称したことがきっかけで、マイケルは現在に至るまで「キング・オブ・ポップ」と呼ばれるようになる。

1990年、アーケードゲーム『マイケル・ジャクソンズ・ムーンウォーカー』が発表される。

1991年11月、4年ぶりとなる新作アルバム『デンジャラス』を発表。3作品を続けて手掛けてきたクインシーに代わってニュー・ジャック・スウィングの先駆者であるテディ・ライリーをプロデューサーに迎えた本作では、これまで以上にソリッドなサウンドを目指して新境地に挑戦した。本作の売上は前作『バッド』を上回り、前作同様多くのシングルヒットが生まれた。特に先行シングル「ブラック・オア・ホワイト」は、人種の壁を乗り越えようというその歌詞が多くの人に受け入れられ、20か国のチャートで1位を獲得した。マコーレー・カルキンと共演したショート・フィルムも話題となり、劇中の演出ではモーフィングと呼ばれる映像技術が使用された。

1993年、「デンジャラスツアー」中のマイケル・ジャクソン

1992年2月、ガボンの名誉勲位であるメリット勲位が贈られる。1992年6月、2度目のワールド・ツアー「デンジャラス・ワールド・ツアー」を開始。収益金は全てヒール・ザ・ワールド基金に寄付された。

同年7月、シングル「ジャム」のショート・フィルムにて、NBAの選手でマイケル同様「MJ」のイニシャルを持つマイケル・ジョーダンと共演

1993年1月、スーパーボウル・ハーフタイムショーに出演。当時低迷していた「スーパーボウル」の視聴率がマイケルの出演によって大きく改善したため、以降は有名音楽家のハーフタイムショー出演が恒例となった。

同年2月、オプラ・ウィンフリー・ショーに出演。インタビューではさまざまな疑惑に答え、尋常性白斑に罹患していることを初めて明かした。

マイケルは、バブル時代のド派手な時代を思い起こさせてくれます。

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