赤坂氷川神社様をあとにして次の目的地 人形町の末廣神社様へ向かって移動しました。赤坂氷川神社様から六本木へ方面へ歩き東京メトロ日比谷線六本木駅へ到着。地下鉄で人形町駅まで移動しました。日曜日の昼間の地下鉄は空いています。奥さんと並んで座り一休みです。20分もかからずに人形町駅に到着。改札を出て最寄りの出口から地上に上がりました。地上へ上がる階段で若い女性が傘をたたんでいました。「あれ~?雨が降っている?」地上に出たら暑い日差し。彼女は日傘をたたんでいたのがわかりました。夏の日差しは肌を刺す感じ。間違いなく日焼けしてました。表通りから裏通りへ抜け歩くこと数分で目的地の末廣神社様が見つかりました。鳥居の前にのぼりがありわかりました。裏通りには大きなビル、建物はありませんが隙間なく建物が並んでいます。そこにのぼりがゆらゆら揺れていました。鳥居からわずか数mで拝殿がありそのすぐ右わきに社務所が見えました。都内の神社様は敷地が狭いのは仕方ない事です。周りがどんどん開発され敷地が狭くなっていったのだと思います。のぼりには「毘沙門」の文字が大きく書かれていました。末廣神社様は日本橋七福神の毘沙門天でもある様でした。末廣神社様のホームページには以下の記述がありました。
御由緒
当社は古文書によると、慶長元年(1596年)には鎮座していたという記録が残っています。
元和元年(1615年)徳川家康公の命により、山本院實行を駿河の国よりこの地に呼び寄せて当社に奉仕させました。
元和3年(1617年)、庄司甚右衛門らが幕府から許可を得て、当時未開の沼地だった周辺地域を開拓し、江戸町一、二丁目・京町一、二丁目を定めました。これが江戸で初めての遊郭「葭原(吉原)」となり、町が活気づくにつれ、人々は当社を鎮守(地主神)として篤く信仰しました。
明暦2年(1656年)、幕府は江戸市街拡張のため、葭原の移転を言い渡し、さらに翌年の「明暦の大火」により葭原は焼失。同年、遊郭は現在の浅草へと移転し「新吉原」が開かれました。
葭原移転後も町の賑やかさは変わらず、その跡地の難波町(現・人形町二丁目浪花会)、住吉町(現・人形町二丁目二之部町会)、高砂町(現・富沢町南部地区)、新和泉町(現・人形町三丁目東部南側)の四か町の氏神として信仰されました。
当社の周辺には幕府に仕える役人の住宅が多かったことから、これらの崇敬も深く、古くから狛犬や玉垣、幕、調度品など様々なものが多く奉納されております。
現在の社殿は、昭和22年に再建(総檜造り)されたものです。
御祭神
宇賀之美多麻命(お稲荷さま)他4柱、 毘沙門天
例祭日
5月22日
御神宝
中啓(末廣扇)
古文書(京都・伏見稲荷大社からの文書他=中央区文化財)
末廣神社 財福・勝運の神 毘沙門天像
四天王最強の神、毘沙門天。
夜叉、羅刹を率いて北方守護を司ります。
右手に三叉鉾を持ち、左手に宝塔を捧げ、邪鬼の上に乗り、甲冑で身を固め憤怒の表情で悪しきものを追い払い、七福神の一柱に数えられています。
財運・勝運・開運・厄除け・無病息災に御利益があるといわれております。
当社の毘沙門天像は、彫刻家 浮田麻木氏が一木造で彫られた木像を御奉納いただきお祀りしております。
毘沙門天は龍(辰)や虎(寅)と縁があります。辰の日、寅の日はお参りして運気を上げましょう。
「養母世稲荷」 相殿、もう一柱のお稲荷様
江戸の世、高砂町(現・富沢町南部地区)に徳の高い女性がいました。その女性は助産婦をしながら生計を立て、働く女性のために子供を預かり、また親から見捨てられた孤児を引き取り、食事を与え学問も教え自分の子供のように育てたそうです。
感銘を受けた近隣の武家や庄屋、商売人の援助を受けながらも、その方は奢ることなく多くの女性と子供を助け続けました。
徳の高い女性が亡くなった後、人々はその生き様を称えて稲荷社を建てました。
名前を「養母世稲荷」として崇め奉り、町の有志で今の世まで脈々と護ってきました。
お社の維持が不可能となり、祭礼を古くより当社が務めていたご縁で養母世様を当社でお預かりすることとなりました。
以来、女性と子供の守り神として信仰されております。
境内案内
は組の石碑 (木遣石とも言われています)
当時、江戸でも多くの火消しがいた火消屋敷(現在でいう消防署)が当社近くの浜町にあり、この付近一帯の防災を担っていたため、当社への火消し達の信仰も特に篤かったと考えられます。
火消しの「いろは組」の石碑が神社に奉納され現存しているのは珍しく、火災や災害の多かった当時の江戸の人々の火伏せ・災難除けを願う神への崇敬心の深さが伺われます。
「満願成就 末廣徳の石」
境内にある大きな椎の木、その根元に様々な徳を授け高める力があるといわれる石があります。
ご参拝をした後、石の上に財(お金)を置き、願いを込めます。
置いたお金を持っていると徳運が貯まり、また、使っても徳運が広がるといわれています。
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