上賀茂神社様

今回の日帰り京都弾丸ツアーではできる限り行きたい神社仏閣へ行くツアーとしました。三十三間堂、伏見稲荷大社、圓徳院と参拝してまいりました。圓徳院で三面大黒天堂を出て駐車場へ向かう途中で雨が降ってきました。雨は傘をさすほどではありませんでした。車の中で少し休んで上賀茂神社へ向かう途中、雨が本降りとなってきました。フロントガラスに雨が当たります。間欠ワイパーで視界が悪くて前が見えないほどでした。30分もかからずに上賀茂神社の駐車場に到着しました。その時にはすでに雨は上がっていました。

暑い夏の日に急な雨。ゲリラ豪雨とまでは以下程度の雨ですが、結構気温が下がりました。移動中の車中で降られただけで、雨傘は全く必要ありませんでした。晴れ男には傘は必要ありません。雨を降らせた黒い雲は立ち消え、真っ青な青空が広がりました。気持ちいい天気に変わりました。上賀茂神社の名前は知っていましたが、参拝するのは初めてでした。歴史のある神社はやはり雰囲気が違っていました。気持ちのいい場所でした。上賀茂神社について調べてみました。ウイキペディアには以下の記述がありました。

賀茂別雷神社(かもわけいかづちじんじゃ)は、京都市北区上賀茂本山にある神社。通称は上賀茂神社(かみがもじんじゃ)。式内社(名神大社)、山城国一宮、二十二社(上七社)の一社。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。

ユネスコの世界遺産に「古都京都の文化財」の1つとして登録されている。

概要

高札所、一の鳥居

京都最古の歴史を有する一社であり、かつてこの地を支配していた古代氏族である賀茂氏の氏神を祀る神社として、賀茂御祖神社(下鴨神社)とともに賀茂神社(賀茂社)と総称される。賀茂社は奈良時代には既に強大な勢力を誇り、平安遷都後は皇城の鎮護社として京都という都市の形成に深く関わってきた。賀茂神社両社の祭事である賀茂祭(通称 葵祭)で有名である。また、社報「上賀茂」が年2回発行されている。

祭神

  • 主祭神 – 賀茂別雷大神(かもわけいかづちのおおかみ)

歴史

創建については諸説ある。社伝では、神武天皇の御代に神山(こうやま、賀茂山ともいう)の麓の御阿礼所に賀茂別雷命が降臨したと伝える。

『山城国風土記』逸文では、玉依日売(たまよりひめ)が加茂川の川上から流れてきた丹塗矢を床に置いたところ懐妊し、それで生まれたのが賀茂別雷命で、兄玉依日古(あにたまよりひこ)の子孫である賀茂県主の一族がこれを奉斎したと伝える。丹塗矢の正体は、乙訓神社の火雷神とも大山咋神ともいう。玉依日売とその父の賀茂建角身命は下鴨神社に祀られている。天武天皇6年(677年)に社殿が建立されたとする。

国史では、文武天皇2年(698年)3月21日、賀茂祭の日の騎射を禁じたという記事が初出で、他にも天平勝宝2年(750年)に御戸代田一町が寄進されるなど、朝廷からの崇敬を受けてきたことがわかる。

延暦13年(794年)の平安遷都後は、皇城鎮護の神社としてより一層の崇敬を受け、大同2年(807年)には最高位である正一位の神階を受け、賀茂祭は勅祭とされた。『延喜式神名帳』では「山城国愛宕郡 賀茂別雷神社」として名神大社に列し、名神祭・月次祭・相嘗祭・新嘗祭の各祭の幣帛に預ると記載されている。弘仁元年(810年)以降約400年にわたって、伊勢神宮の斎宮にならった斎院が置かれ、皇女が斎王として奉仕した。

江戸時代の寛永5年(1628年)には境内の一大整備が行われている。

明治の近代社格制度でも伊勢神宮に次いで、賀茂御祖神社(下鴨神社)とともに官幣大社の筆頭とされ、1883年(明治16年)には勅祭社に定められた。

1948年(昭和23年)に神社本庁の別表神社に加列されている。

境内には明神川が流れ、境内の外の南側にはかつての社家町が残っている。また、境内の外の北側には、御阿礼祭の日に斎王が入ったという神館の跡とその周辺・御生野があったが、太平洋戦争後に連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)によって日本で戦後最初の新築ゴルフコースである現在の京都ゴルフ倶楽部・上賀茂コースが作られてしまった。しかし、神館跡と御生野はコース内に取り込まれながらもなんとか残された。

格式の高い神社はやはり違いました。とても気持ちのいい場所でした。また、訪れたい場所です。

 

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