2020年8月28日 当時の総理大臣 安倍晋三氏が辞任を表明しました。安倍晋三氏 ウイキペディアには以下の記述がありました。
安倍 晋三(あべ しんぞう、1954年〈昭和29年〉9月21日 – 2022年〈令和4年〉7月8日)は、日本の政治家。位階は従一位。勲等は大勲位。
内閣総理大臣(第90・96・97・98代)、内閣官房長官(第72代)、内閣官房副長官(政務担当)、衆議院議員(10期)、自由民主党総裁(第21・25代)、自由民主党幹事長(第41代)、自由民主党幹事長代理、清和政策研究会会長(第10代)などを歴任した。
来歴
生い立ち
1954年9月21日に、毎日新聞の記者であった安倍晋太郎と妻洋子の次男として東京都に生まれる。弟の信夫は養子に出されたため末子として育つ。本籍地は山口県大津郡油谷町(現長門市)。父方の祖父は衆議院議員の安倍寛、母方の祖父は後の首相岸信介で、大叔父には後の首相佐藤栄作がいる政治家一族であり、「幼い頃から私には身近に政治がありました」と回想している。幼い頃は野球選手や、テレビを見て刑事になることに憧れていた。
学生時代
成蹊小学校、成蹊中学校・高等学校を経て、成蹊大学法学部政治学科を卒業した。
小学4年生から5年生にかけての1964年から2年間は平沢勝栄が家庭教師についていた。高校でのクラブは地理研究部に所属。高校卒業後、成蹊大学に進み、佐藤竺教授のゼミに所属して行政学を学ぶ。大学ではアーチェリー部に所属し、準レギュラーだった。大学生の頃は人付き合いが良く、大人しく真面目だったという。2015年9月には、母校の成蹊大学の教授や職員、卒業生、在校生らによる安全保障関連法案と立憲主義否定の態度に反対する声明を出されている。
1977年春に渡米し、カリフォルニア州ヘイワードの英語学校に通うが、日本人だらけで勉強に障害があると判断して通学を止め、イタリア系アメリカ人の家に下宿しながらロングビーチの語学学校に通った。1978年1月から春季・夏季・秋季と1年間、南カリフォルニア大学に留学しており政治学の専攻ではなく講座に通学していた。ただし在籍はしたものの学士の資格は得ていない。首相として訪米中に同大学を訪問している。
会社員時代
1979年4月に帰国し、神戸製鋼所に入社。ニューヨーク事務所、加古川製鉄所、東京本社で勤務した。加古川製鉄所での経験は「私の社会人としての原点」「私の原点」だったと回顧している。
政界入り
秘書時代
神戸製鋼所に3年間勤務した後、1982年から外務大臣に就任していた父の秘書官を務める。1987年6月9日、森永製菓社長の松崎昭雄の長女で電通社員の昭恵と新高輪プリンスホテルで結婚式を挙げた。媒酌人は福田赳夫夫妻が務めた。
1987年、参議院議員江島淳の死去に伴う補欠選挙に立候補する意思を示したが、宇部市長二木秀夫が出馬を表明したことから父に断念するよう説得され立候補を見送った。
衆議院議員
1991年、父晋太郎が急死。1993年に父の地盤を引き継ぎ、第40回衆議院議員総選挙に山口1区から出馬し初当選(当選同期に浜田靖一・田中眞紀子・熊代昭彦・岸田文雄・塩崎恭久・野田聖子・山岡賢次・江崎鉄磨・高市早苗らがいる)。当選後はかつて父が会長を務めた清和政策研究会に所属する(当時の会長は三塚博)。1994年、羽田内閣施政下、社会党の連立離脱を期に野党自民党が社会党との連立政権樹立を目指して作った超党派グループ「リベラル政権を創る会」に参加。首班指名選挙では村山富市に投票し自社さ連立政権・村山内閣樹立に貢献。1995年の自民党総裁選では小泉純一郎の推薦人の一人になった。1999年、衆議院厚生委員会理事に就任。
内閣官房副長官
派閥領袖の森喜朗首相が組閣した2000年の第2次森内閣で小泉純一郎の推薦を受け、内閣官房副長官に就任。第1次小泉内閣でも再任した。
2002年、水野賢一が外務大臣政務官在任中に台湾訪問を拒否され辞任した際も理解を示し擁護、小泉首相の北朝鮮訪問に随行し、小泉首相と金正日総書記との首脳会談では「安易な妥協をするべきではない」と毅然とした対応で臨んだ。拉致被害者5人の帰国は実現したものの、この日本人拉致問題は日本側の納得する形では決着せずに難航した。内閣官房参与の中山恭子と共に北朝鮮に対する経済制裁を主張し、拉致被害者を北朝鮮に一時帰国させる方針にも中山と共に頑強に反対した。西岡力は、対話路線などの慎重論を唱える議員が多かった中で、安倍の姿勢は多くの支持を得たと述べている。
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