8月1日

弘前ねぷた祭りは8月1日から7日にかけておこなわれる祭りです。

弘前ねぷたまつり(ひろさきねぷたまつり)は、青森県弘前市で開催される弘前四大まつり(弘前さくらまつり、ねぷた、弘前城菊と紅葉まつり、弘前城雪燈籠まつり)のひとつである夏祭り。

大勢の市民が「ヤーヤドー」の掛け声とともに、武者絵が描かれた山車を引いて市内を練り歩く。弘前ねぷたには扇ねぷた(扇型)と組ねぷた(人形型)があり、総数約80台の県内最多のねぷたが運行される。

起源・沿革

ねぷたまつりの由来はさまざまある。

  • (伝説)平安時代の初期、征夷大将軍・坂上田村麻呂が、蝦夷をおびき出すために大きな人形を作った。
  • (伝承)文禄2年(1593年)7月に藩祖津軽為信が京都滞在中に盂蘭盆会で二間四方の大燈籠を出した。
  • (定説)江戸時代の元禄期後半からの「七夕祭りの松明流し・精霊流し・眠り流し」や「盆灯籠」などが融合変化し、現在の華麗なねぷたに発展してきた。

語源は、「眠り流し」→「ねむた流し」→「ねむた」→「ねぷた(ねぶた)」と転訛(表記は佞武多、禰ふたと様々ある)。「眠り流し」は日本各地で行われている。農作業の激しい夏期に襲ってくる睡魔を追い払い、厄災・邪悪を水に流して村の外に送り出す行事のひとつ。

明治から昭和初期にかけて、主に当時の弘前市内に複数あった、町道場に通う士族や平民の子弟らを中心とした若者達が作り練り歩いたねぷたでは、他の道場または町会のねぷたと出くわすと、相手のねぷたに石を投げつけたり、竹槍や木刀等(時には日本刀)で乱闘し、しばしば死傷者を出したため、何度も「ねぷた禁止令」 が出されたことがある。これを「けんかねぷた」という

日中戦争が始まった翌年の1938年(昭和13年)から中断していたが、1947年(昭和22年)に復活した。

1971年(昭和46年)、陸奥新報社の創立25周年記念で棟方志功がネプタ絵を描いた。

1980年(昭和55年)、「弘前のねぷた」が国の重要無形民俗文化財に指定された

1983年(昭和58年)日本国外(アメリカ・シアトル市)で初めて運行された。

1996年(平成8年)、弘前ねぷた囃子が「日本の音風景100選」に認定された。

2011年(平成23年)は東日本大震災犠牲者への鎮魂や弘前城築城400年祭記念などをテーマに、7月31日に特別運行・8月7日になぬか日スペシャルが行われた。

2014年(平成26年)8月5日、参加者がねぷたの昇降機に頭を挟まれて死亡する事故が発生したため、事故翌日以降の開催は全面中止となった。事故による中止は、ねぷたの「合同運行」を開始した1958年以来初めてのこと。

2020年(令和2年)4月15日、新型コロナウイルス感染症の拡大を受け、櫻田宏市長はこの年の開催中止を発表した

2021年(令和3年)5月27日、新型コロナウイルス感染予防と拡大防止の観点から、2年連続の開催中止を発表した

まつりの内容

  • 例年8月1日から7日にかけて弘前ねぷたまつりとして行われる。最終日7日(午前運行)のことを「七日日(なぬかび)」と呼ぶ。まつりの運営に関しては、弘前市・弘前観光コンベンション協会・弘前商工会議所・弘前市物産協会・弘前ねぷたまつり合同運行安全会議の5団体で構成する「弘前ねぷたまつり運営委員会」が運営している。
  • 企業主催のねぷたは少なく、町会・集落単位でのねぷたが多かったが、近年は任意に仲間たちが集まって参加しているグループねぷたが増加傾向にある。2010年(平成22年)は84団体の参加となった。しかし、その年をピークに減少傾向である。
  • 弘前市と友好都市の関係にある、群馬県太田市(旧・新田郡尾島町)と北海道斜里郡斜里町でもねぷた運行がされており、弘前ねぷたまつりに特別参加する年もある。また、弘前市長など弘前市関係者が太田市、斜里町のまつりに参加する場合もある。
  • 期間中、1日平均約50団体が参加するが、土・日などの開催日には参加団体が多い場合がある。2006年(平成18年)の場合、木曜日の8月3日に59団体、土曜日の5日には62団体と集中したため、両日は出発時間を30分早い、午後6時半からとした。

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