今日はいろいろ奥さんと一緒に巡ってきました。まずは自宅近くの目黄不動様へ行ってきました。五色不動様というのがある事をつい最近知りました。目黒、目白、目赤、目青そして目黄 都内にあるのです。いつものようにネットで調べると以下の記述を発見。『五色不動は江戸五色不動とも呼ばれており、江戸幕府3代将軍・徳川家光が大僧正・天海の建言により江戸府内から5箇所の不動尊を選び、天下太平を祈願したことに由来するなどの伝説が存在する。史跡案内など多くの文献ではこのような説話に倣った由来が記述されているが、資料によっては伝説の内容にばらつきも見られる。一方で五色不動を歴史的に研究したいくつかの報告によると、実際に「五色不動」という名称が登場するのは明治末または大正始めであり、江戸時代の史実とは考えにくいとしているが、伝説自体は江戸時代から伝わる噂話に原型が見られるという。また名称を別とすれば個々の寺院や不動像自体は江戸時代(以前)からの歴史を持つとされる。特に目黒不動・目白不動・目赤不動については江戸時代の資料からもその名称が確認でき、江戸の名所として「三不動」の名で知られる。このうち、目黒と目白は山手線の駅名ともなり、特に目黒は区名となっているため有名である。なお五色不動は基本的に天台宗や真言宗の系統の寺院にあり、密教という点で共通しているが、不動明王に限らず明王は元来密教の仏像である。』
伝説・・・各寺の説話や、フィクションなどにおける伝説等については細部でばらつきが見られるものの、おおむね以下のような内容が語られることが多い。ここではそのような伝説について記し、史実についての補足は別節に記すものとする。5色となっているのは五行思想の五色(ごしき)からとも言われる。寛永年間の中旬、3代将軍徳川家光が大僧正天海の具申をうけ江戸の鎮護と天下泰平を祈願して、江戸市中の周囲5つの方角の不動尊を選んで割り当てたとされる。最初に四神相応の四不動が先行し、家光の時代ないしは後年に目黄が追加されたとして語られる場合もある。五色とは密教の陰陽五行説由来し重んじられた青・白・赤・黒・黄でそれぞれ五色は東・西・南・北・中央を表している。また、その配置には五街道との関連も見られるほか、五色不動を結んだ線の内側が「朱引内」あるいは「江戸の内府」と呼ばれたという都市伝説が語られることもある。
史実・・・江戸時代に目黒・目白が存在している。目黒は将軍家光の鷹狩りに関連して尊崇されていた。目白は、将軍家光が目黒にちなんで命名したとも、目白押しから名付けられたともいう。また、江戸時代初期の動坂(後述)には、伊賀の赤目に由来する赤目不動があったが、家光の命により目赤と名乗るようになり現在地へ移ったと称する。以上3つの不動については、江戸時代の地誌にも登場するが、天海と結びつける記述はまったく見られない。教学院はもともと青山にあり、「青山の閻魔様」として親しまれていた。ここには近くにあった廃寺から不動像がもたらされている。明治40年代にこの寺院は世田谷区太子堂に移転し、その頃から「目青不動」を名乗るようになった。目黄不動は2箇所が同定されているが、いずれも浅草勝蔵院にあった「明暦不動」(後になまってメキ不動と呼ばれたこともある)に近く、その記憶から目黄不動とされたのではないかと推測される。いずれにせよ、江戸時代には目がつく不動が3つしかなく、それをセットとして語る例はなかった。明治以降、目黄、目青が登場し、後付けで五色不動伝説が作られたものと考えられる。前述の五街道との関連も、江戸の地理条件に由来する多少の偶然と考えられ、五色不動を結んだ線の内側が「朱引内」あるいは「江戸の内府」と呼ばれたという説についても史実ではない。幕末の朱引図は五色不動と関係なく作られたものである。
今回、目黄不動 最勝寺(東京都江戸川区平井)へ行きました。桜井しきこさんが紹介していたので・・・不動尊様は邪気を払ってくれるそうです。悪い念も払ってくれるそうです。天気が良くでとても気持ちよくお参りできました。境内で猫が日向ぼっこをしていました。気持ちよさそうでした。奥さんは前日からの頭痛で困っていましたが、なぜがすっきり治ったそうです。こちらの不動尊様のお力なのか・・・また、敷地内に最勝稲荷神社様がありました。こちらもお参りしてまいりました。
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