深大寺様

深大寺へお参りしてきました。自宅から電車やバスを乗り継いて行ってきました。

過る平成十三年盛夏、深大寺の新梵鐘(ぼんしょう)開音法要が行われました。南北朝時代、永和二年(一三七六)の洪鐘(こうしょう)にかわり、六百余年ぶりに平成新鐘の梵音が武蔵野に響き渡りました。『遊暦雑記』は更にこの鐘につき、「永和の将軍は三代義満公なれば、いまより四百四十年余に及ぶ、東叡山(とうえいざん)に倍せり」と、その驚きを綴っています。まこと深大寺は、かつては歴史的に貴重な文物を数多く蔵していたのでありますが、残念ながら幾多の災厄にあい、今日では僅かを伝えているのみであります。

いまから三百五十年程前の徳川時代の初期、正保三年(一六四六)に深大寺は炎上し、その縁起(えんぎ)、経疏(きょうしょ)、霊仏、霊宝、諸梵器等の殆どを焼失してしまいました。この不幸は東叡山にも衝撃であり、慈眼大師天海(てんかい)大僧正より東叡山主の座を継承した公海(こうかい)法親王は、深大寺復興へ特命住職を送りました。即ち深大寺第五十七世住職辨盛(べんじょう)法印は焼失した縁起の再録を発願し、古記を見聞した輩や、古老の伝語を調べ、『深大寺真名縁起詞書』(以下『縁起』と略す)を編集しました。時に慶安三年(一六五〇)のことであります。その後それを仮名交じり文に改めた『深大寺仮名縁起詞書』、さらにそれを絵にした『深大寺縁起絵巻』が伝えられています。

以下はこの『縁起』を参考に聊か深大寺の沿革について触れたいと思います。

『縁起』によれば、深大寺を開いた満功上人(まんくうしょうにん)の父、福満(ふくまん)が、郷長右近(さとおさうこん)の娘と恋仲となりましたが、右近夫妻はこれを悲しみ、娘を湖水中の島にかくまってしまいます。時に福満は玄奘三蔵(げんじょうさんぞう)の故事を思い浮べ、深沙大王(じんじゃだいおう)に祈願して、霊亀の背に乗ってかの島に渡ることが出来たのです。娘の父母もこの奇瑞を知って二人の仲を許し、やがて生まれたのが満功上人であったと伝えています。
長じて満功上人は、父福満の宿願を果すために出家し、南都に法相(ほっそう)を学び、帰郷後、この地に一宇(いちう)を建て深沙大王を祀りました。時に天平五年(七三三)、これが深大寺開創の伝説であります。

いま深大寺の境域は清水にめぐまれ、その清冽な水はつきない流れとなって、かつては下流の田を潤してきました。古代、その水を求めて集まった人々の泉に対する感謝の心は、素朴な水神信仰を生み、やがて仏教の伝来とともにこの霊地に注目して寺が建立されたといわれます。これが草創期の姿なのでありましょう。

深沙大王は本来、疫病を除き、魔事を遠ざける効能のある神とされています。唐の玄奘三蔵が経典を求めて天竺に赴く途次、砂漠での難を深沙大王が救ったという説話は有名ですが、深大寺では例年十月に深沙大王堂で大般若経(だいはんにゃきょう)六百巻の転読会を厳修しますが、堂内には玄奘と向い合って鬼神の姿の深沙大王像が描かれている十六善神図が掲げられます。

かくして『縁起』には、淳仁天皇が「浮岳山深大寺」の勅額を下し、大般若転読を永式と定める鎮護国家の道場になったことを伝えています。

平安時代、清和天皇の貞観年中(八六〇年頃)、武蔵の国司蔵宗(こくしくらむね)が反乱を起こし、この降伏を祈念するために、修験の達者である比叡山の恵亮和尚(えりょうかしょう)が勅命をうけ東国に下りました。特に恵亮和尚は深大寺を道場に定めて、逆賊降伏の密教修法を行ない、その平定の功により清和天皇は、近隣七ヶ村を深大寺に寄せられ、寺を恵亮和尚に賜りました。昭和五十八年、深大寺開創千二百五十年を記念して建立された山上の開山堂には、深大寺開基満功上人そして天台宗第一祖、大楽大師(だいらくだいし)恵亮和尚の両祖師像が祀られているのです。

以来深大寺はそれまでの法相宗を改め天台の法流をくみ、源家の尊崇を集めるに至りました。さらには天台密教の一流である仏頂流を伝承し、東国第一の密教道場となって、その勢いは大いにふるったといいます。

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