住吉祭
住吉祭(すみよしまつり)は、7月31日に大阪市の住吉大社で行われる例大祭を中心とした祭礼(夏越祓神事、神輿渡御祭、荒和大祓神事)。愛染まつり、天神祭と共に大阪三大夏祭りの一つ。
住吉大社(すみよしたいしゃ)は、大阪府大阪市住吉区住吉にある神社。式内社(名神大社)、摂津国一宮、二十二社(中七社)の一つ。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。全国にある住吉神社の総本社である。本殿4棟は国宝に指定されている。
概要
大阪市南部、上町台地基部西端において大阪湾の方角に西面して鎮座する。海の神である筒男三神と神功皇后を祭神とし、古くは古墳時代から外交上の要港の住吉津・難波津と関係して、航海の神・港の神として祀られた神社である。古代には遣唐使船にも祀られる国家的な航海守護の神や禊祓の神として、平安時代からは和歌の神として朝廷・貴族からの信仰を集めたほか、江戸時代には広く庶民からも崇敬された。摂津国の一宮として大阪で代表的な神社であるのみならず、旧官幣大社として全国でも代表的な神社の一つである。
社殿は、本殿4棟が「住吉造」と称される古代日本の建築様式で国宝に指定されているほか、幣殿・石舞台・高蔵など多くの建物が国の重要文化財に指定されている。神宝としては、数少ない古代文書の一つである『住吉大社神代記』は国の重要文化財に指定され、木造舞楽面など多数が重要文化財・大阪府指定文化財に指定されている。また伝統的な神事を多く残すことでも知られ、特に御田植神事は全国でも代表的なものとして国の重要無形民俗文化財に指定、夏越大祓神事は大阪府選択無形民俗文化財に選択されている。
社名
社名は、『延喜式』神名帳には「住吉坐神社」と見えるほか、古代の史料上には「住吉神社」「住吉社」などと見える。また『住吉大社神代記』には「住吉大社」「住吉大明神大社」などとも記されている。中世には主に「住吉大神宮」と見える。明治維新後には社号を「住吉神社」と定めていたが、戦後の昭和21年(1946年)に『住吉大社神代記』の記述にならって社号を「住吉大社」に改め現在に至っている。
「住吉」の読みは、現在は「スミヨシ」だが、元々は「スミノエ(スミエ)」だった。例えば奈良時代以前に成立した『万葉集』には「住吉」のほか「住江」「墨江」「清江」「須美乃江」という表記も見えるが、平安時代に成立した『和名抄』にはすでに「須三與之」と記されている。本居宣長の『古事記伝』以来の通説では、元々の「スミノエ」に「住江」「墨江」「清江」「住吉」等の表記があてられた中で「住吉」が一般化し、それが音に転じて平安時代頃から「スミヨシ」の呼称が一般化したと解されている(類例に日吉大社<ヒエ→ヒヨシ>)。ただし過渡期の平安時代には両者の使い分けも見られ、歌枕としての扱いでは、「スミノエ」は江を指し「スミヨシ」は社・浦・里・浜を指すと歌学書にはある。
元々の読みである「スミノエ」の語義について、『摂津国風土記』逸文では、筑紫からお連れした住吉神がこの地に住むと言ったため、神功皇后が「真住吉住吉国(まさに住み吉き住吉国)」と讃称したことに由来とする地名起源説話を載せている。一方で歴史考証学上では、「清らかな入り江(=澄み江)」を原義とする説が有力視されている。実際に住吉大社南側の細江川(細井川)旧河口部には入り江があったと見られ、古代にその地に整備された住吉津(墨江津)は難波津とともに外交上の要港として機能し、住吉大社の成立や発展に深く関わったと考えられている。
祭神
現在の祭神は次の4柱で、4本宮に1柱ずつを祀る。
- 第一本宮:底筒男命(そこつつのおのみこと)
- 第二本宮:中筒男命(なかつつのおのみこと)
- 第三本宮:表筒男命(うわつつのおのみこと)
- 第四本宮:神功皇后(じんぐうこうごう) – 名は「息長足姫命(おきながたらしひめのみこと)」。第14代仲哀天皇皇后。
特に底筒男命・中筒男命・表筒男命の3柱は「住吉大神(すみよしのおおかみ)」と総称され、「住江大神(すみのえのおおかみ)」・「墨江三前の大神(すみのえのみまえのおおかみ)」とも別称される。延長5年(927年)成立の『延喜式』神名帳[原 2]での祭神の記載は4座。『住吉大社神代記』(平安時代前期頃か)でも祭神を4座とするが、第一宮を表筒男、第二宮を中筒男、第三宮を底筒男、第四宮を姫神宮(気息帯長足姫皇后宮)としており現在とは順序が異同する。
祭神について
主祭神の住吉三神(筒男三神/筒之男三神)は、『古事記』・『日本書紀』において2つの場面で登場する神々である。一つは生誕の場面で、黄泉国から帰ったイザナギ(伊奘諾尊/伊邪那岐命)が筑紫日向小戸橘檍原(あわぎはら)で穢れ祓いのため禊をすると、綿津見三神(海三神)と筒男三神が誕生したとし、その筒男三神について『日本書紀』では「是即ち住吉大神なり」、『古事記』では「墨江の三前の大神なり」とする。
次いで登場するのは、神功皇后が筑紫の橿日宮にあり、夫の仲哀天皇が熊襲討伐で没したとき、皇后が中臣烏賊津を審神者(さにわ)として「(夫に)教えていた神の名」について神託を仰ぐと「日向国の橘小門の筒男三神」の名も挙がり、神田の整備を行いながら、皇后の三韓征伐が成功したとする(『日本書紀』)。
特に『日本書紀』では、住吉神は皇后の朝鮮からの帰還に際しても神託したとし、それにより住吉神の荒魂を祀る祠が穴門山田邑に、和魂を祀る祠が大津渟中倉之長峡に設けられたとする。また『住吉大社神代記』では、筑紫大神が神功皇后に我が荒魂を穴門山田邑に祀るよう宣託を下したので、穴門直の祖である踐立が住吉神社(山口県下関市)に荒魂を、和魂を津守の祖である手搓(田裳見宿禰)が大津渟中倉之長峡の祠(当社の地)に祀ったとある。
このように住吉三神は記紀編纂時の7-8世紀には神代巻に登場する天神(あまつかみ)のランクに位置づけられており、『令義解』・『令集解』でも伊勢神・山城鴨神・出雲国造斎神と並んで住吉神が天神である旨が記される。三神の「ツツノヲ」の字義については詳らかでなく、これまでに「津の男(津ツ男)」とする説のほか、「ツツ」を星の意とする説、船霊を納めた筒の由来とする説、対馬の豆酘(つつ)から「豆酘の男」とする説などが挙げられる。そのうち「津の男」すなわち港津の神とする説では、元々は筑前国の那の津の地主神・守護神であった住吉三神であり、三韓征伐後に分祀された和魂を当社が祀り、難波の発展に伴って難波津も含むヤマト王権の外港の守護神に位置づけられ、神功皇后紀のような外交・外征の神に発展したとも推測される。また星の意とする説のうちでは、オリオン座中央の三つ星のカラスキ星(唐鋤星、参宿)と関連づける説などがある。
祭神数は『延喜式』・『住吉大社神代記』から現在まで4座とされ、他の式内社の住吉神社(3座または1座)と異にするが、住吉大社の場合も元々の祭神は住吉三神の3座であって4座目(第四宮)は時期が下っての合祀とされる。第四宮については、『住吉大社神代記』では「姫神宮」と記されるほか住吉三神との密事伝承が記され、現在の社殿配置も第一・二・三宮の列とは外れる点が着目される。これらを基に、元々は住吉大社に奉仕していた巫女が祭られる神に発展し(巫女の神格化)、住吉三神共同の妻神として第四宮が形成され、後世(一説に7世紀以降)の神功皇后伝説の形成とともに第四宮に神功皇后の神格が付与されたとする説がある。
なお、上記のように祭神の順序は『住吉大社神代記』と現在では異なるが、『二十一社記』・『廿二社本縁(二十二社本縁)』以降の鎌倉時代末から現在までは底筒男が第一とされることから、中世期に祭神の順序の変更があったとする説がある。中世期には祭神自体にも異説が生じ、『廿二社本縁』では筒男三神・玉津島明神(衣通姫)とする説(住吉社を歌神とする信仰に由来)を、『二十二社註式』では天照大神・宇佐明神・筒男三神・神功皇后とする説を挙げる。祭神の本地仏に関しても、4神を薬師如来・阿弥陀如来・大日如来・聖観音菩薩に比定する説を始めとして文献により諸説があった。
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