6月2日 本能寺

6月2日について調べてみました。記念日を調べたらなんと「裏切りの日」という日がある事を知りました。ウイキペディアには以下の記述がありました。

1582年(天正10年)の6月2日_(旧暦)、本能寺の変で、織田信長が明智光秀に裏切られて攻められ、本能寺で自害した。中国の毛利攻めに難儀している羽柴秀吉の応援を命じられた明智光秀は、進軍の途中で道を変更し、本能寺の織田信長を襲った。襲撃を知った信長は近侍の森蘭丸に誰の襲撃か尋ね、光秀と聴くと「是非もなし」と応えて自害したと、『信長公記』に伝えられている。

天正10年(1582年)の元旦、信長は出仕してきた者たちに安土城の「御幸の間」を見せたという記載が『信長公記』にはある。そして、正月7日、勧修寺晴豊は、行幸のための鞍が完成したのでそれを正親町天皇に見せている(『晴豊公記』)。このため、天正10年かそれ以降に、正親町天皇が安土に行幸する事が予定されていたと考えられる

4月、信長を太政大臣・関白・征夷大将軍のいずれかに任ずるという構想が、村井貞勝と武家伝奏・勧修寺晴豊とのあいだで話し合われた(三職推任問題)。このことは、晴豊が『天正十年夏記』に記載しているが、その中の「御すいにん候て然るべく候よし申され候」の文意が明確ではない。そうした事情から、この推任が朝廷側の提案によるものなのか、あるいは村井貞勝の申し入れによるものなのか、研究者のあいだで解釈に争いがある。いずれにせよ、5月になると朝廷は、信長の居城・安土城に推任のための勅使を差し向けた。信長は正親町天皇と誠仁親王に対して返答したが、返答の内容は不明である。

こうしたなか、信長は四国の長宗我部元親攻略を決定し、三男の信孝、重臣の丹羽長秀・蜂屋頼隆・津田信澄の軍団を派遣する準備を進めた。この際、信孝は名目上、阿波に勢力を有する三好康長の養子となる予定だったという。そして、長宗我部元親討伐後に讃岐国を信孝に、阿波国を三好康長に与えることを計画していた。また、伊予国・土佐国に関しては、信長が淡路まで赴いて残り2カ国の仕置も決める予定であった。そして、信孝の四国侵攻開始は6月2日に予定されていた[243]

しかし、従来、長宗我部元親との取次役は明智光秀が担当してきたため、この四国政策の変更は光秀の立場を危うくするものであった

5月15日、駿河国加増の礼のため、徳川家康が安土城を訪れた。そこで信長は明智光秀に接待役を命じる。光秀は15日から17日にわたって家康を手厚くもてなした。信長の光秀に対する信頼は深かった。一方で、この接待の際、事実かどうか定かではないものの、『フロイス日本史』は、信長が光秀に不満を持ち、彼を足蹴にしたと伝えている。家康接待が続く中、信長は備中高松城攻めを行っている羽柴秀吉の使者より援軍の依頼を受けた。信長は光秀に秀吉への援軍に向かうよう命じた。

5月29日、信長は未だ抵抗を続ける毛利輝元ら毛利氏に対する中国遠征の出兵準備のため、供廻りを連れずに小姓衆のみを率いて安土城から上洛し、本能寺に逗留していた。

ところが、秀吉への援軍を命じていたはずの明智軍が突然京都に進軍し、6月2日未明に本能寺を襲撃する[251]。この際に光秀は侵攻にあたっては標的が信長であることを伏せていたことが、『本城惣右衛門覚書』からわかる。わずかな手勢しか率いていなかった信長であったが、初めは自ら弓や槍を手に奮闘した。しかし、圧倒的多数の明智軍には敵わず、信長は自ら火を放ち、燃え盛る炎の中で、自害して果てた。享年49。

信長の遺体は発見されなかったが、これは焼死体が多すぎて、どれが信長の遺体か把握できなかったためと考えられる。

本能寺の変から4ヶ月後、羽柴秀吉の手によって、大徳寺において信長の葬儀が盛大に行われた。

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