天文3年 西暦1534年6月23日 織田信長が生まれました。織田信長についてウイキペディアには以下の記述がありました。
織田 信長(おだ のぶなが、天文3年5月12日〈1534年6月23日〉 – 天正10年6月2日〈1582年6月21日〉)は、日本の戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、戦国大名。戦国の三英傑の一人。
尾張国(現在の愛知県)出身。織田信秀の嫡男。家督争いの混乱を収めた後に、桶狭間の戦いで今川義元を討ち取り、勢力を拡大した。足利義昭を奉じて上洛し、後には義昭を追放することで、畿内を中心に独自の中央政権(「織田政権」)を確立して天下人となった。しかし天正10年6月2日(1582年6月21日)、家臣・明智光秀に謀反を起こされ、本能寺で自害した。
これまで信長の政権は、豊臣秀吉による豊臣政権、徳川家康が開いた江戸幕府への流れをつくった画期的なもので、その政治手法も革新的なものであるとみなされてきた。しかし近年の歴史学界ではその政策の前時代性が指摘されるようになり、しばしば「中世社会の最終段階」とも評され、その革新性を否定する研究が主流となっている。
織田信長は、織田弾正忠家の当主・織田信秀の子に生まれ、尾張(愛知県西部)の一地方領主としてその生涯を歩み始めた。信長は織田弾正忠家の家督を継いだ後、尾張守護代の織田大和守家、織田伊勢守家を滅ぼすとともに、弟の織田信行を排除して、尾張一国の支配を徐々に固めていった。
永禄3年(1560年)、信長は桶狭間の戦いにおいて駿河の戦国大名・今川義元を撃破した。そして、三河の領主・徳川家康(松平元康)と同盟を結ぶ。永禄8年(1565年)、犬山城の織田信清を破ることで尾張の統一を達成した。
一方で、室町幕府将軍足利義輝が殺害された(永禄の政変)後に、足利将軍家の足利義昭から室町幕府再興の呼びかけを受けており、信長も永禄9年(1566年)には上洛を図ろうとした。美濃の戦国大名・斉藤氏(一色氏)との対立のためこれは実現しなかったが、永禄10年(1567年)には斎藤氏の駆逐に成功し(稲葉山城の戦い)、尾張・美濃の二カ国を領する戦国大名となった。そして、改めて幕府再興を志す意を込めて、「天下布武」の印を使用した。
翌年10月、足利義昭とともに信長は上洛し、三好三人衆などを撃破して、室町幕府の再興を果たす。信長は、室町幕府との二重政権(連合政権)を築いて、「天下」(五畿内)の静謐を実現することを目指した。しかし、敵対勢力も多く、元亀元年(1570年)6月、越前の朝倉義景・北近江の浅井長政を姉川の戦いで破ることには成功したものの、三好三人衆や比叡山延暦寺、石山本願寺などに追い詰められる。同年末に、信長と義昭は一部の敵対勢力と講和を結び、ようやく窮地を脱した。
元亀2年(1571年)9月、比叡山を焼き討ちする。しかし、その後も苦しい情勢は続き、三方ヶ原の戦いで織田・徳川連合軍が武田信玄に敗れた後、元亀4年(1573年)、将軍・足利義昭は信長を見限る。信長は義昭と敵対することとなり、同年中には義昭を京都から追放した(槇島城の戦い)。
将軍不在のまま中央政権を維持しなければならなくなった信長は、天下人への道を進み始める。元亀から天正への改元を実現すると、天正元年(1573年)中には浅井長政・朝倉義景・三好義継を攻め、これらの諸勢力を滅ぼすことに成功した。天正3年(1575年)には、長篠の戦いでの武田氏に対して勝利するとともに、右近衛大将に就任し、室町幕府に代わる新政権の構築に乗り出した。翌年には安土城の築城も開始している。しかし、天正5年(1577年)以降、松永久秀、別所長治、荒木村重らが次々と信長に叛いた。
天正8年(1580年)、長きにわたった石山合戦(大坂本願寺戦争)に決着をつけ、翌年には京都で大規模な馬揃え(京都御馬揃え)を行い、その勢威を誇示している。
天正10年(1582年)、甲州征伐を行い、武田勝頼を自害に追いやって武田氏を滅亡させ、東国の大名の多くを自身に従属させた。同年には信長を太政大臣・関白・征夷大将軍のいずれかに任ずるという構想が持ち上がっている(三職推任)。その後、信長は長宗我部元親討伐のために四国攻めを決定し、三男・信孝に出兵の準備をさせている。そして、信長自身も毛利輝元ら毛利氏討伐のため、中国地方攻略に赴く準備を進めていた。しかし、6月2日、重臣の明智光秀の謀反によって、京の本能寺で自害に追い込まれた(本能寺の変)。
一般に、信長の性格は、極めて残虐で、また、常人とは異なる感性を持ち、家臣に対して酷薄であったと言われている。一方、信長は世間の評判を非常に重視し、家臣たちの意見にも耳を傾けていたという異論も存在する。なお、信長は武芸の鍛錬に励み、趣味として鷹狩り・茶の湯・相撲などを愛好した。南蛮などの異国に興味を持っていたとも言われる。
政策面では、信長は室町幕府将軍から「天下」を委任されるという形で自らの政権を築いた。天皇や朝廷に対しては協調的な姿勢を取っていたという見方が有力となっている。
江戸時代には、新井白石らが信長の残虐性を強く非難したように、信長の評価は低かった。
とはいえ、やがて信長は勤王家として称賛されるようになり、明治時代には神として祀られている。第二次世界大戦後には、信長はその政策の新しさから、革新者として評価されるようになった。しかし、このような革新者としての信長像には疑義が呈されつつあり、近年の歴史学界では信長の評価の見直しが進んでいる.
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