6月26日

6月26日に何があったか検索したらアントニオ猪木とアリの異種格闘技戦があった日でした。当時、私は中学生でした。この試合の模様をテレビで見ました。「なんだこれ~」とがっかりしたことを記憶しています。ウイキペディアには以下の記述がありました。かなり詳細に記述されていました。

アントニオ猪木対モハメド・アリ(アントニオいのきたいモハメド・アリ)は、1976年(昭和51年)6月26日に行われた新日本プロレスの企画した「格闘技世界一決定戦」。日本のプロレスラーであるアントニオ猪木と、ボクシング世界ヘビー級チャンピオンのモハメド・アリによる異種格闘技戦で「世紀の一戦」とされた。試合会場は日本武道館。

1975年(昭和50年)3月に、当時のWBA・WBC統一世界ヘビー級チャンピオンだったアリは自民党国会議員で日本レスリング協会会長八田一朗に「100万ドルの賞金を用意するが、東洋人で俺に挑戦する者はいないか?」と発言した。アリは大口をたたくことで有名で、当然この発言もアリ独自のリップサービスであることは世間も承知だった。

アリの発言を聞きつけた当時NET(現・テレビ朝日)の編成局長でスポーツ中継を多く手がけた永里高平は、アリとは当初高見山を対戦相手に画策し日本相撲協会と交渉をしていたが、これを聞きつけた猪木は自分が名乗り出ることを永里に伝え、終生猪木を寵愛していた当時NET専務の三浦甲子二も、猪木でもいいのではと永里に案を振ったことで、猪木が対戦相手に浮上した。三浦はプロレスファンには1983年の新日本プロレスのクーデター事件で猪木の復権をさせる鶴の一声をした人物として知られるが、資金面を含め多大な協力をし、政財界にも強い影響力を持ち、新日本プロレスと猪木、新間寿らのよき理解者であり、アリ戦実現にニューヨーク支局を担保に入れるなどまでして全面協力した。アリ戦の数日前には三浦は酔って猪木の家に上がり込んだあげく、猪木にマッサージさせたこともあり、美律子夫人は怒ったが、翌朝朝食を作って送り出してくれたという。この一件で三浦は猪木夫妻を気に入り、アリ戦後の借金も一部NETからの資金で肩代わりしてくれたという

猪木は「100万ドルに900万ドルを足して1,000万ドル(当時のレートで30億円)の賞金を出す。試合形式はベアナックル(素手)で殴り合い。日時、場所は任せる」といった挑戦状をアリ側に送ったが、マスコミも現役のボクシング世界王者アリとプロレスラーが戦うなど実現は到底不可能と思っており、当初は冷めた反応だった。

しかし、この猪木の挑戦状に反応したアリは6月9日、マレーシアでのジョー・バグナーとの防衛戦前に東京に立ち寄り、会見を開いた。会見でアリは「猪木なんてレスラーは名前すら知らなかったが、相手になる。レスリングで勝負してやる」と発言、これにより半信半疑だったマスコミも一気に火がつき、新聞でも大きく取り上げられることとなった。ところが、ボブ・アラムを含めたアリのマネージャー群が、一連のアリの発言を撤回し、全てを白紙に戻してしまった。つまり世界的に有名なアリと知名度の低い日本のレスラーを戦わせるということなど、そう簡単に許可できるものではなかったのである。これに反発した猪木は、アリが逃げられないように外堀を埋めていった。10月に入るとアメリカ、ヨーロッパのマスコミに対してアリ戦のアピール記事と写真を送りつけた。

これだけ反響が大きくなると、アリ側も猪木の挑戦を無視できなくなり、ニューヨーク、ロサンゼルスにおいて猪木と極秘会談を行った。試合形式(15ラウンド制)、ギャラ、ルール問題が難航したが、ある程度まで交渉が進んで行き、1976年(昭和51年)3月25日にはニューヨークで調印式を行うこととなった。猪木は当時の妻・倍賞美津子を連れ、袴姿で調印式に登場した。

ギャラの問題は、1,000万ドルを譲らないアリ側と、600万ドルを提示する猪木側で折り合いがつかず、調印式当日まで揉めた。しかし最後はアリ本人が「600万ドルは飲めないが、600万ドル以上ならOKだ」と言い、結局610万ドルで双方とも合意に達した。この調印式でアリは、猪木の突き出た顎を指して「まるでペリカンのくちばしだ。お前のそのくちばし(顎)を粉々に砕いてやる」と挑発的な言葉を浴びせた。これに対して猪木は全く顔色を変えず、「私の顎は確かにペリカンのように長いが、鉄のように鍛え上げられている」と返答。更に「日本語をひとつ教えてあげよう。アリとは日本で虫けらを指す言葉だ」と言い返したところ、アリは激高し「ペリカン野郎め。今すぐ叩きのめしてやるぞ」と大声で叫んだ。

アリのギャラは興行収益の他にNET(現・テレビ朝日)、東京スポーツ社等、各方面から借金をしてアリに支払われる予定であった。試合前に180万ドル、試合後に120万ドル、クローズドサーキットの収入から310万ドル、合計610万ドルがアリのギャラとして予定された。ただし、最終的に興行が失敗に終わったため、実際に猪木側がアリ側に支払った金額は180万ドルに留まったとされている。

この一戦のプロモーターであった康芳夫は、アリとその陣営はプロレスを馬鹿にしていたというが、アリはもともとプロレスファンであることが知られており、来日前の1976年6月10日、当時のビジネスの拠点だったシカゴでのAWAの興行において、猪木戦のプロモーションとしてバディ・ウォルフらを相手にミックスド・マッチを行ったこともあり、プロレスというエンタテインメントの特性などは詳しく理解していた。しかし両陣営の話が互いに一方的な条件を出し合い譲ることなく、事前交渉が決裂した形になったともされる。当時レフェリー兼外国人プロレスラーの世話係の担当であったミスター高橋は後に自著でアリを崇高な人格者と表現した上で、その取り巻きの態度の悪さには怒りを露わにしている。高橋はそれらの件について猪木も腹に据えかねる思いであったろうと推察している。

アリの来日とルール策定

1976年(昭和51年)6月16日、アリが来日した。羽田空港には2000人のファンが押し寄せ、大混乱となった。6月18日に行われた会見の場では、両者は試合前からヒートアップをしており、アリのビッグマウス(リップサービス)がさらにそのムードを煽った。「猪木の汚い顔は見たくない」「俺は世界一有名な男。猪木は俺と戦ったおかげで有名になる男」など、会見中は止まることなく猪木を挑発し、その口を閉じることはなかった。また、アリは猪木に本気の力で技をかけたり、猪木はアリに松葉杖を送るパフォーマンスを行った。猪木も「ウチの会社の宣伝マンとして雇いたい」とジョークを言ってアリを苦笑させるなど、前哨戦では互角の戦いを見せていた。

当時、新日本プロレス所属の現役プロレスラーであった山本小鉄は、サムライTVの番組内にて「アリは単にエキシビションのつもりで来日したが、公開スパーリングでの猪木の本気振りを観て驚き、『試合をキャンセルする』と申し出た。その為『どんなルールでも構わないからとにかく試合をしてほしい』と交渉した結果、あのルールになった」と話している。通訳を務めたケン田島によると、アリは最初「それでリハーサルはいつやるんだい?」と聞いてきたという。「ノー! ノー! これはエキシビションではない。イッツ、リアルファイト! OK?」と伝えると驚いた表情で「何だと?」と返したという。アリのプロモーターであったボブ・アラムやアリの主治医であったファーディ・パチェコも、プロレスラーはパフォーマーやペテンだと思っていたため当初は真剣勝負だとは考えていなかったが、日本に到着して関係者が真剣だったことで、そこで初めてこの試合は真剣勝負なのだとわかったと回想している。 ただ、これらはすべて猪木サイドやプロレス関係者が語った後日談である。

一方、Thomas Hauserの著書『Muhammad Ali, His life and times』にボブ・アラムの証言がある。日本語に訳すと“日本側が(アリのマネージャーの)ハーバート・ムハンマドのところに来て、シナリオありのDealを持ちかけた。(中略) しかし来日後、アリが罪の意識を感じ始め、観衆を欺くのは間違いだと判断し、リハーサルを拒んだ“と記されている。

1) 猪木は15ラウンドを通じて約23分30秒(全体の約52%)は立っていたにもかかわらず、アリがわずか5発(7ラウンド、10ラウンド、13ラウンド2発、14ラウンド)の寸止め 左ジャブしか出さなかった事実

2) ジャッジ3人の判定が、レフェリーのジン・ラベールがドロー(ポイント:71対71)、遠山甲(日本ボクシング協会公認レフェリー)が猪木(72対68)、遠藤幸吉(プロレス)がアリ(74対72)に付けるという不可解な両者引き分けの裁定

上記の2点から、最終的には、筋書きはなかったにせよ「15ラウンドでドロー」という結末は決まっていたという説に対する論理的な反論は難しい。

6月20日に後楽園ホールで入場料3千円が設定された公開スパーリングでは徹夜組もでた。ミスター高橋によれば、スパーリングに先立ってアリキックを考案していたほど入れ込んでいた猪木の真剣さを目の当たりにしたアリ側は、ルールの修正を求めるようになる。猪木側の交渉は新間寿に一任されており、ルール問題について連日の交渉に臨んだ。試合当日まで1週間を切ってもなお交渉が難航すると、アリ側は「それなら試合はせずにアメリカに帰る」と申し出た。この問題に頭を抱える新間に猪木は「(要求は)何でも飲め。俺はアリを困らせるために日本に呼んだんじゃなく、アリと試合をするために呼んだんだ」と促し、ルールは変更された。この時点で猪木は「アリに勝つ」ことではなく「アリと試合をする」ことに重点を置いていたと思われる。後楽園ホールでのスパーリングのほか、入場料2千円のアリのジムでの公開練習、参加費5万円の京王プラザホテルでのディナーパーティが行われた。パーティの定員は400人であったが完売した。

タックル、チョップ、投げ技、関節技などのほとんどのプロレス技が反則になるという試合のルールだった、と後年まことしやかに言われたこともある。

それに対して、新間寿は『アサヒ芸能』(2002年1月31日号)に次の手記を寄稿している。 “禁じ手のオンパレードだったということになっているが、事実はまったく違う。(中略)それは私が今でも保存している書類を見れば一目瞭然だ。猪木が言う『がんじがらめのルール』などというものは存在しなかったのだ。(中略)実際、猪木も本当に深く落ち込んでいた。そんな彼に代わって私は必死に「過酷なルールだった」と周囲に説明し、彼の名誉を守った”

また、ノンフィクション作家柳澤健も取材の結果これらのがんじがらめルール説を否定している。猪木にタックルの技術がなくて踏み込めなかったことの言い訳であり、実際の禁止事項は、頭突き、ヒジ打ち、膝蹴り、頸椎や喉への打撃、スタンドでの蹴り(ただし膝をついたり、しゃがんでいる状態の時の足払いは許される)というものだったと主張している。

試合当日

入場料金はロイヤルリングサイド席(後援者や関係者のみで、一般販売はせず)が30万円、特別リングサイドが10万円、リングサイドAが8万円、リングサイドBが6万円という異例の金額であった。この試合の宣伝ポスターは数種類存在し、そのひとつには俳優の石坂浩二によって描かれたものもある。猪木がこの試合のためにあつらえたガウンも石坂のデザインである。

試合当日は「格闘技オリンピック」と題して、ニューヨーク(WWWF主催興行、ショーダウン・アット・シェイとして)ではWWWFヘビー級王座戦としてブルーノ・サンマルチノ対スタン・ハンセン、異種格闘技戦としてアンドレ・ザ・ジャイアント対チャック・ウェプナーなど。シカゴではAWA世界ヘビー級王座戦としてニック・ボックウィンクル対バーン・ガニア、AWA世界タッグ王座戦としてディック・ザ・ブルーザー&クラッシャー・リソワスキー対ブラックジャック・ランザ&ボビー・ダンカンなど。ヒューストンではNWA世界ヘビー級王座戦としてテリー・ファンク対ロッキー・ジョンソン、ロサンゼルスではウィレム・ルスカ対ドン・ファーゴ(英語版)など。全米各地でイベントが開催された。これらの試合は猪木対アリ戦も含めて、全米で170か所、カナダで15か所、イギリスで6か所などでクローズドサーキット(劇場での有料中継)で流れた(入場料は1人20ドル)。

通常のヘビー級ボクサーの試合で使う10オンスでなく練習用の4オンスのグローブをアリは使用したが、4オンスのグローブを使うと自身の拳を傷めてしまうため、「本気で殴らない」というアリの事前の約束を守るための意思表示とも取れる。

試合前にテレビカメラがアリの控え室に入り、アリの試合前の様子を撮影していたが、アリのスパーリングの時間になると取り巻きがカメラのレンズ部分に手をかざし、その場を覆い隠していた。

ミスター高橋は暴露本の中で「バンデージを巻く際に退出を命じられた」と明かし、「シリコンを拳に注射した」「石膏を仕込んだ」と訝しむ声もあり、猪木自身も後にテレビ朝日で放送されたアリの追悼番組で「拳はセメントのように固かった」と懐述している。

一方で、アリはバンデージのままリングに上がり、自分で右手にグローブをはめ、左手でグローブの紐を途中まで締めた。石膏で固めた手でそのようなことはできない。

さらに、ゴング直前にはレフェリーのジーン・ラベールとカール・ゴッチが、アリのグローブに触れてチェックしていることが当時の映像から確認できる。

また、3ヶ月後にケン・ノートンとの世界戦を控える中、慢性的な拳への痛みを抱えていたアリ本人や、トレーナーやドクターが、そんな危険な行為に及ぶことは考えにくい。

元WBA、WBC世界ストロー級(現・ミニマム級)王者の大橋秀行は「そんなことをしたらボクサー自身が拳を痛めてしまうため、100%ありえない」と否定している。

ただしボクシングでボクサーがグローブやバンデージの中に硬質の物質を不正に仕込むのは古くから存在する手法である。有名なところでは、古くはジャック・デンプシーが石膏を仕込んでいたことをマネージャーが暴露、近年ではアントニオ・マルガリートが石膏を仕込んでいたことが発覚して処分されている。また、2010年にはバンデージ内に異物を入れて固める不正が横行したことで、WBCが選手の使用したバンデージを試合後に回収するなどチェックをさらに強化している

猪木側は鉄板入りのリングシューズも用意したが、猪木は「新間、俺は後で悔いの残る試合はしたくないんだよ」と答え、改造シューズの使用を断った、という後日談がある。(試合で相手選手には内密で鉄板入りのリングシューズを履く行為は契約違反に該当し、相手に怪我をさせれば傷害罪も成立する)

ただ、スネの下から足の甲にかけて鉄板を入れながら、運動性を妨げないシューズの開発は極めて難しい。後年に『週刊プロレス』元編集長の山本隆司が、当時猪木のシューズを作っていた杉本シューズに確認し、「確かに新間から鉄板入りシューズ製作の依頼はあったが、断わった」という証言を得ている。

試合開始のゴングと共に、猪木はアリの足元にスライディングをして蹴りを2発放つが、アリに当たらない距離で意図的に蹴っているのが当時の映像からわかる。

それから猪木は幾度となくリングの上に寝転がり、アリの足を蹴ろうとするが、そのほとんどは空振りだった。そんな猪木の攻め方に、少し苛立ちを感じたアリは猪木に立つように挑発。猪木も何度か立ち上がりはしたものの、またアリの足を狙いに寝転がり、アリは常に軽やかなステップを踏み続けた。

猪木のセコンドを勤めたカール・ゴッチは、戦法に対して特にアドバイスをすることはしなかった。しかし後に「戦法を間違えた」と評したことがある

「猪木を本気で殴らない」と来日前にアリが語る録音テープが存在するが、実際にこの試合でアリが放ったパンチはわずか5発(7ラウンド、10ラウンド、 13ラウンド2発、14ラウンド)でいずれも寸止めの左ジャブであった。 一方、猪木の蹴りは12ラウンドを除きほとんどのラウンドでは空振りが目立った。

猪木の寝転がりに退屈している観客を盛り上げようとしたアリも、最終ラウンドに近づくにつれて徐々にやる気が薄れていき、猪木を挑発することも無くなった。猪木もアリを転がすこともあったが決定打を出すことはできず、3分15ラウンドが終わった。

15ラウンドのほぼ全ての時間を寝ながら戦った猪木と何もなす術のないアリに対して、観客は物を投げたり、罵声を浴びせた。

勝負は判定に持ち込まれたが、ジャッジ3人の判定は、この試合のメインレフェリーを兼任したジン・ラベール(英語版)がドロー(ポイント:71対71)、遠山甲(日本ボクシング協会公認レフェリー)が猪木(72対68)、遠藤幸吉(プロレス)がアリ(74対72)に付け、両者引き分けの裁定となった。なお、ミスター高橋は遠藤が採点記入方法を間違えたと後年指摘しており、これがなければ猪木が勝利していたというが真偽は不明。15ラウンド中でアリが放ったパンチはジャブ5発にも関わらず、プロレス側のジャッジである遠藤がアリの勝ちという不可解な判定であったことから、ドローが予め決まっていた可能性が高い。

この試合は、当日NETが中継を行う予定だったので事前に扱うと宣伝になり同業他社を支援することになってしまうこと、NET以外の民放局は普段プロレスを報道しないこともあって、報道番組では扱わなかった。しかし、視聴率戦争とは縁遠かった当時のNHKは『ニュースセンター9時』を中心に、試合前の記者会見の模様をはじめ、試合結果の報道も行った。四大新聞では毎日新聞が試合前から度々報道していた。

なおNETの中継の視聴率は38.8%(ビデオリサーチ調べ)だった。

日本プロレス界において猪木と並び立つ雄であるジャイアント馬場は試合後にコメントを求められ「プロレスのリングでおこなわれるものは、すべてプロレス」と、コメントを出した。

アリは猪木戦直後に帰国せず、韓国のソウルでアマチュアボクサーを相手にエキシビションマッチを行った後、フィリピンのマニラでショッピングモールのオープンセレモニーに出席した。 血栓症を患い、サンタモニカの病院に入院したという報道AP通信も一部にはあるが、実際は9月のケン・ノートン戦を前にした検査であった。

ボブ・アラムがアリの脚にダメージがあると言ったことに対して、ノートンは「アリの怪我はフェイクだ」とコメントしている。 ノートンとの試合はアリの脚の怪我で延期されたと日本では報じられたこともあったが、実際は予定通り9月に行われアリが勝利を収めている。

その後の猪木とアリ

この一戦を終えた猪木の名は世界に広まったが、その広まり方に問題があり、ある媒体などは「足を広げた売春婦がリングの中にいた」と報じていた。しかしこれによって新日本プロレスはヨーロッパ各国でテレビ放送されるまでになった。1976年にはパキスタン遠征やドイツ遠征を果たしたことでも、それは証明される。

猪木および新日本プロレスは多額の借金を背負わされることになった。そのため、新日本プロレスはその後も人気のあった異種格闘技戦を、年間シリーズとは別に興行せざるを得なくなった。

猪木のギャラはクローズドサーキットの収益から100万ドルを受け取る予定だったが、収益が見込みに達さず、その責任を取る形で猪木は社長から会長職に棚上げ、新間は営業本部長から平社員に格下げとなった。このギャラ問題で新日本側はアリ側に「こういう事態になったのはアリ側の強引なルール変更が原因でまともな試合ができなかったため」という理由で損害賠償を求め、アリ側も契約不履行の訴訟をするに至った。訴訟の途中で円高ドル安が進行して1ドル310円から200円台になったことから新間は弁護士から「和解せずに一度だけでも裁判を行ってはどうか」と勧められたが、後に新間は弁護士抜きでアリと話し合い、最終的に和解した上に再戦に関する文書まで書いた。

2人の関係は試合の後も続き、アリが自身の結婚式に猪木を招待。猪木が平壌で「平和の祭典」を行った際にはアリは、北朝鮮入りをして猪木とリック・フレアーの試合の立会人を務めた。1998年(平成10年)4月4日には、東京ドームで行われたアントニオ猪木の引退試合に、アリはパーキンソン病で侵されていた体に無理を押して来日、リングに上がって猪木に花束を贈呈した。

2014年4月には、アリがツイッターで、猪木対アリの試合画像を添付して「元祖総合格闘家はモハメド・アリだろ?」とツイートしている。

2016年6月4日、前日の3日にアリが死去したという報が日本で伝えられると、猪木は所属事務所を通じて「逝去の報に接し、謹んでお悔やみ申し上げます。最近では、体調を崩されているということを聞いて心配しておりましたが、こうして、かつてのライバルたちを見送ることは非常に辛いものです。あの戦いから今年で40年。6月26日が『世界格闘技の日』と制定された矢先の訃報でしたので残念です」というコメントを発表した。

アリが死去した際には、ニューヨーク・タイムズ[18]やロサンゼルス・タイムズなどで猪木対アリの特集記事が組まれた。

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