5月29日

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作詞家 野口雨情さんが生まれた日です。ウイキペディアには以下の記述があります。

本名、野口英吉。廻船問屋を営む名家(楠木正季が先祖と伝えられているが不明)の長男として茨城県多賀郡磯原町(現・北茨城市)に生まれる。父・量平、母・てる

4年制小学校・4年制高等小学校を終了後上京。東京専門学校(現・早稲田大学)に入学し、坪内逍遥に師事するが、1年余りで中退、詩作を始める[1]。このとき1901年、英吉19歳

父の事業失敗と死により、1904年、故郷に帰り、家督を継ぐ。このとき、家の没落をふせぐために、家族(つまり亡父や親族)から、栃木県の資産家の娘との政略結婚をお膳立てされており、英吉は同い年(23歳)の高塩ひろと結婚するが、もともと気の進まない話で、後年、破綻する。

この頃酒におぼれたというが、詩作にも打ち込み、朝餐会などで発表していた。「雨情」の号を名乗ったのもこの頃である。1905年(明治38年)処女民謡詩集『枯草』を水戸から自費出版。しかし反響は得られなかった

妻ひろは、1906年に長男の雅夫を生んだ。しかし雨情は窮屈な家庭を飛び出し、事業で一旗揚げる名目で樺太にわたるが、失敗。一緒にコルサコフまでともなった芸者に金を持ち逃げされてしまい、残った金で林檎を貨物列車の一両分、東京に送って売ろうともくろんだが腐ってしまった[5]

妻ひろが上京して雨情を連れ戻しに来たが、そのまま東京にとどまり詩人になると宣言。1907年(明治40年)一月より『朝花夜花』なる民謡月刊を発行するが不発。同年、三木露風、相馬御風らと共に早稲田詩社(月二回会合する会)を結成するが、その後しばらく詩作から遠ざかる。この時期(1906-1909年)、雨情は北海道に渡って新聞記者となっていた。『小樽日報』に勤めていたときには同僚に石川啄木がおり、交友を結んだ。雨情は当時の主筆に対する排斥運動を起こしたが敗れて退社し、啄木とは1ヶ月足らず机を並べただけに終わる

『小樽日報』を首になったちょうどそのころ(1907年10月)、妻は女児みどりを出産したが、この子は一週間ほどで亡くなった。のちの『シャボン玉』はこのとき夭折した娘のことを歌っているとされるが、根拠がないとする向きもある。

雨情は北海道で六つの新聞社を転々とした後、1909年(明治42年)、いったんは帰郷するも、すぐまた上京してしまう

1911年、母の死を契機にふたたび郷里にもどり、家の植林や農地財産の管理などに従事するようになったが、文学への執着は捨てきれず「悶々とした生活をおくっていた」。1914年、雨情は痔の湯治のためにいわき湯本温泉を訪れるが、このとき置屋「柏屋」のおかみ、小すみ(本名明村まち)とねんごろになり、そのまま3年半をここで暮らすようになる。その合間(1915年5月)に、夫人との協議離婚が成立している。雨情は二児をひきとり育てることになった。

1918年、雨情は水戸に行き、中里つると再婚した[11]。この頃から詩の創作活動をはじめた。1931年、野口存彌が生まれる。1943年(昭和18年)軽い脳出血で倒れて後は療養に専念。1945年(昭和20年)疎開先の栃木県河内郡姿川村鶴田(現・宇都宮市鶴田町1744番地)の羽黒山麓で死去。そこに野口雨情旧居(登録有形文化財)が保存されている。

昔、営業の仕事で茨城県磯原へ行ったことがあります。海岸沿いに国道6号が橋いています。そこを車で走っていたら野口雨情生家資料館の看板がありました。野口雨情さんの事は、ほとんど知りませんでしたが、なぜか急に親しみを覚えた記憶があります。不思議です。また、磯原には記念館お有ります。ホームページには施設概要として「北茨城市歴史民俗資料館(野口雨情記念館)は、北茨城市に生まれ日本三大童謡詩人の一人とされる野口雨情の偉業を顕彰し後世に伝えるために開館されました。
また、北茨城市の特色を示す民俗、文化財あるいは歴史の流れを裏づける遺物、文書等の歴史資料を保存展示し、郷土の歴史と文化に対する知識と理解を深め文化の振興を図ることを目的としています。」

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